27. 4月 2023 · April 27, 2023* Art Book for Stay Home / no.118 はコメントを受け付けていません · Categories: 日記

『青木繁-悲劇の生涯と芸術-』河北倫明(角川書店、1964年)

青木繁の研究、第一人者の最も核となる書である。ただし、本著は河北最初の著作『青木繁-生涯と芸術』(養徳社、1949年)をそのまま再録し、「じゅうげもんの世界」という一文を付録のように加えたものである。73年前、河北が徹底した青木繁論を書き上げたことによって、青木繁の画家としての評価が定まったと言える。本著はその後出版された『私論 青木繁と坂本繁二郎』松本清張(新潮社、1982年)や『青木繁 世紀末美術との邂逅』高橋沙希(求龍堂、2015年)の青木繁に関する名著において重要な研究書として位置づけられている。

著者は福岡県浮羽郡の生まれであり、福岡県久留米市生まれの青木繁に同郷の親しみと興味、さらに研究の何割かは福岡、熊本、佐賀と関わっており、研究対象として恵まれた環境にあったと思われる。付け加えられた一文「じゅうげもんの世界」は、久留米地方特有の言葉で「じゅうげもん」という人物評語である。意味は内部に鬱結した強い精神があってそれが表面に開いて出てこないでグツグツと出てくるタイプのことである。著者は青木にその性格の典型を見て、青木繁論の拠り所の一つとしているところは興味深い。

京都大学文学部で美学及び美術史を修め専門とする著者は、青木繁の作品について徹底した美術批評としての分析を進める一方で、青木繁の人生とは何であったのかという人物論にも迫っており、同郷の友人坂本繁二郎をはじめ森田恒友、愛人である福田たね、師の黒田清輝、同窓の熊谷守一、和田三造、山下新太郎らとの人間関係によって、青木の凄まじい性格が描き出されている。また青木は膨大な読書をこなし、短歌をともなう多くの文章、手紙を書き、文学界からも称賛された。夏目漱石は「青木くんの絵を久し振に見ました。あの人は天才と思ひます。」と友人の手紙に書いている。

父の猛反対を押し切って、美術の道に進んだ青木は、文学の分野に至るまで天馬空をゆく異才ぶりを発揮した。しかし明治という時代は、洋画の世界においてまだまだ未熟であり、その才能に応えるものではなかった。東京美術学校で天才と言われようと、画家としての不遇な人生は、父の死、家族の経済的崩壊、愛人福田たねとの理不尽、自らの病に屈して行くしかなかったのである。

15. 4月 2023 · April 15 , 2023* Art Book for Stay Home / no.117 はコメントを受け付けていません · Categories: 日記

『過去はいつも新しく、未来はつねに懐かしい』森山大道(青弓社、2000年)

対談、独白、インタビューで綴られる森山大道の著である。したがって本文全てが大道の話しことばである。読後、大道の口癖「ぼくは、ぼくの、ぼくとしては・・・」が脳にくり返される。誰でもそうであるが、話し言葉は少し乱暴で、むだな言葉が挟まれて、少々くどめである。聞いている分には、何も問題なく意味がわかるが、それが文章になるとまどろっこしくなる。しかし、そこに本音が直接心に響いて来て、「だよ、だよね、解るよ」と読者である自分も話し言葉で理解するのである。

そこから立ち上がってくる大道のキャラクターは、無頼で、少々荒っぽく、ざっぱで、生理的である。ところが読み進めていくと、繊細で、いたるところに気遣いが感じられ、やさしい兄貴であり、おじさんである。

森山大道の写真は、写真の領域を越えて、現代美術の分野でも評価が高い。私も同感であるが、本人にとってみれば「余計なお世話だ」だろう。芸術として評価を得ようなんてことは大道にとっては全くどうでも良いことである。しかし、鑑賞の側に立ってみれば、本人の意志などどうでも良いことで、写真という媒体に関係なく、現代美術の魅力に溢れているのである。

大道の言葉「よく写真は芸術か記録かという質問を受けるけれど、もちろん写真が芸術なんかである必要はまったくないと思っている 。 しかしまた写真は記録であるといったところでそれは自明の理であって、そんなこと言ってもはじまらない。ぼくは、写真は芸術とか記録を超えて、もっとハイブリッドなものだと思う。そんなふうに考えつづけ、それをいつか自分なりの方法を通して確認してみたいと思っていた。」の「写真が芸術なんかである必要はまったくない」が好きである。「写真が芸術なんかではまったくない」と言っているわけではない。

本書で一箇所、話しことばではなく、著述がある。後記のところだ。理路整然と知的な文章力で明解に書かれている。それはちょっとしらけるほどだ。