『小説を書くということ』辻邦生(中央公論新社、2025年)
美術館で開催中の「辻邦生と佐保子」展に因んで、辻邦生著の紹介、2冊目。本著は、著名通りに作家志望者に向けた講座「言葉の箱」、主に創作講義であるが、小説を書くことを全く考えていない私が読んでも大変おもしろい。むしろ小説を書く人に向けてという方法論を述べながら、実は小説を読む人のために辻邦生という作家の立場から書いたものではないかと思う。
文中の引用であるが、小説という芸術は「自分が不幸な生まれであるとか、病弱であるとか、お金がないといったことをほとんど乗り越えられる。なぜかといえば、そういうものが気にならなくなる。プルーストの言葉ですが、『あした死ななきゃならないのに、ヴェネツィアにどうしても発ちたいという思いで胸が張り裂けるほどだ』、という気持ちですね。あした死ぬならヴェネツィアなんか見たってしょうがないじゃないかということではないんですね。美のほうが、はるかに与えられた生きている条件を超えて、本質的なものになってしまう。そういう意味を発見していく。そういう歩みが文学をする、小説を書くということの根底にある。」
もちろん本著には、かなり具体的に小説を書くための「考え方」「発想方法」「技術」も論じられている。しかしそういった手段はどうでもよくって、もっととてつもない大きなテーマ「幸福とは何か」を重要なものとして語っている。大げさ過ぎて読者はたじろいでしまうかも知れないが、著者は全く動じることはない。辻文学の魅力はこうした圧倒的な正論が力強く貫かれているところにあるのではないか。no.177で紹介した長編『西行花伝』しかりであるが、短編においても揺るぎない「幸福とは何か」が描かれている。それはつまり、辻自身の生き方であったのだろうと思われる。










