24. 5月 2025 · May 23, 2025* Art Book for Stay Home / no.166 はコメントを受け付けていません · Categories: 日記

『倉俣史朗のデザイン 夢の形見に』川崎和男 (ミネルヴァ書房、2011年)

インテリアデザイナー倉俣史朗は、またプロダクトデザイナーでもあった。三宅一生のISSEY MIYAKE のショップデザイン100店舗以上、ほかバー、レストランなどその多くをあっと言わせる空間で魅了した。正にインテリアデザイナーであるが、椅子をはじめとする家具に倉俣の強い個性と魅力を残している。家具はインテリアデザインとプロダクトデザインの交錯するところにあり、倉俣をインテリアデザイナーに限定すべきではない。

その倉俣のデザインを、日本のプロダクトデザインを牽引する川崎が語る本著は、大いに興味深いものである。ただ倉俣と川崎は極めて僅かしかその出会いはなく、倉俣自身の人間性、人間としての魅力を語る著ではない。倉俣は川崎より15歳上であり、56歳で亡くなった倉俣とは埋められない距離が存在している。

本著に入ろう。倉俣の仕事(自身で作品と呼ばず仕事と呼んだ、いずれにしてもworkであるが)19点を取り上げ20の論考を展開している。博士号(医学)を持つ川崎は、極めて博学であり、デザインに関しても確固たる見識を持っている。倉俣の19の仕事をひとつひとつ丁寧に語っているが、その論調が各項冒頭に他分野著名人の言葉を置くことで始まっている。例えば「1 クビドが放とうとした矢」と題し「われわれに新しい形態を!……号泣が聞こえてくる。」というロシアンアヴァンギャルドの騎手、マヤコフスキーの言葉が置かれる。その言葉の解説、論考から入り、倉俣の仕事『スケルトンのキューピー』に及んでいる。最後に3点のモノクローム写真で仕事が紹介されるといった展開である。1項はまだいい、「2 ワイングラスのインジケーター」は写真がない。何項目も写真がなく、論考だけの展開は、デザインの仕事を抽象化し、読者の思想が暴走する。倉俣論と川崎デザイン論、あるいは川崎哲学が強く語られることになる。もちろん私の理解能力不足によるところも大きいが、読後感はほとんどが川崎哲学であった。

08. 5月 2025 · May 8, 2025* Art Book for Stay Home / no.165 はコメントを受け付けていません · Categories: 日記

『街場の芸術論』内田樹(青幻舎、2021年)

芸術論ではあるが、いわゆる美術に関してはあまり論じていない。序章では、「表現の自由」「言論の自由」「民主主義」について。第一章では「三島由紀夫」、第二章では「小津安二郎」、第三章では「宮崎駿」、第4章では「村上春樹」、第五章では「大滝詠一」「ビートルズ」など。付録的な対談では「内田樹×平田オリザ」で演劇、芸術文化行政を中心に展開される。領域としては、文学、映画、アニメーション、音楽、演劇である。絵画や彫刻、現代美術も登場しない。
それでも本書を紹介するのは、著者内田樹の思想、論理に私が深く傾倒しているからである。その論理は序章で切れ味を見せる。例えば、インターネット上で大部分の人がなぜ匿名を貫くのか、どうして自分の書いたものに責任を取ろうとしないのか、どうして自分が書いたことがもたらす利得を確保しないのか。理由は簡単であると著者は言う。それは書かれたテクストが書き手に利得をもたらす可能性がきわめて低いからである。匿名者が知的所有権を主張しないのは、自分が発信しているメッセージが知的に無価値であるということを自身が知っているからである。となるほどの論理展開である。
著者は、内田樹(うちだたつる)名でX(旧ツイッター)のアカウントを取得し、つぶやいている。日頃は自らの行動や共感する他のつぶやきのリツイートであるが、多様な論を展開しているのでXをやっておられる方はフォローをお勧めする。フォロワー数は280,914(2025年5月7日現在)、当然私もフォローしてそのメッセージを興味深くキャッチしている。憲法記念日のつぶやきは、《憲法記念日なので『週刊金曜日』に寄稿した「憲法空語論」を再録します。憲法を現実に合わせて変えるという考え方の没論理性について書きました。》として自身のブログアドレスに繋いでいる。ちなみに著者の内田氏は、私と同年の1950年生まれ、思想家、武道家、神戸女学院大学名誉教授。

17. 4月 2025 · April 16, 2025* Art Book for Stay Home / no.164 はコメントを受け付けていません · Categories: 日記

『Terence Conran on design テレンス・コンラン デザインを語る』テレンス・コンラン(株式会社リビング・デザインセンター、1997年)

著者テレンス・コンランをご存知だろうか。イギリスの家具デザイナー、インテリアデザイナー、ライフスタイルショップ「ハビタ」「コンラン・ショップ」経営者、レストラン経営者、著述家、イギリス「サー」の称号を持つ。
第二次世界大戦後の日本は、経済復興を産業と貿易に課し、その成果を上げてきたことは誰もが認識するところである。敗戦国でありながら、他国に比べて圧倒的な成長を遂げることができたのは、産業に力を入れたことはもちろんであるが、合わせてデザインを重視してきたことを認識する人は少ない。公立高等学校から大学までデザイン科を設置、追従して私学にも多く設置された。またデザイン教育の根幹は、バウハウス(ドイツのデザイン運動、学校)からであった。いわゆるモダンデザイン思想である。私もその一人で「シンプルで機能的なものは、また美しいデザインである」を思想とした。
しかし1980年代に入って、モダンデザインのマンネリズムが問題視されると、ポストモダン(デザイン)が登場する。理想としたものがフッと消えた。ポストモダンに追従するものと自信をなくしたポストモダンが混在する状況であった。
その時、登場してきたのがテレンス・コンランであった。コンランはモダンデザインに欠けていたものを指摘し、新しいデザイン思想を提示、実現した。そのことを詳細に伝えるものが本著である。私を覆っていたデザインの黒雲が去っていったのである。
著書のくたびれ方は、私が1997年に発売と同時に購入して以来28年、何度も手に取り、読み、調べ、書き込みを繰り返し、テキストとしてきた証である。

03. 4月 2025 · April 3, 2025* Art Book for Stay Home / no.163 はコメントを受け付けていません · Categories: 日記

『引き裂かれた絵の真相 夭折の天才村山槐多の謎』村松和明(講談社、2013年)

著名が語るように本著は村山槐多の謎を徹底解き明かそうとするものである。著者村松和明は、武蔵野美術大学を卒業後岡崎市美術館に学芸員として勤務(現在は岡崎市美術博物館学芸員)した。

約1年後に山本鼎の作品として『裸婦と男たち(日曜の遊び)』が持ち込まれた。本作はその後、村山槐多の作品とされ、画集『村山槐多全画集』(1983年朝日新聞社刊)にも掲載されている。また大回顧展「村山槐多の全て展」(1982年神奈川県立近代美術館)にも出展されている。しかしさらにその後、山本鼎の下絵が見つかり、山本鼎の作品とされた。著者は学芸員として「本作はやはり槐多の作ではないか」とその究明に乗り出す。そのあたりは推理小説を読むようなおもしろさである。

本著は『裸婦と男たち(日曜の遊び)』が主で、あくまで美術評論として書かれているものであるが、槐多の人生哲学に触れる著でもある。詩人であり、プラトン全集、トルストイ全集、ニーチェやソクラテス、更には『往生要集』を始め古事記、日本書紀を読破、英語にも堪能であったという秀才でもある。たった22歳で世を去ったとは思えぬ質、量とも重厚な学びと創作である。名付け親である森鴎外、従兄の山本鼎、その親友の小杉未醒(放庵)、横山大観、江戸川乱歩、戸張孤雁、芥川龍之介、有島武郎、与謝野寛、与謝野晶子、高村光太郎、室生犀星、デスマスクを取った石井鶴三等、誕生から死まで、華やかな美術、文学人に愛されてきた。それは槐多というよりもその才能、詩、絵画に注がれたものであろうと思われる。

この上なく恵まれた才であろうとも、貧乏と病にはどうしようもない虚しさを覚える。

20. 3月 2025 · March 19, 2025* Art Book for Stay Home / no.162 はコメントを受け付けていません · Categories: 日記

『倉俣史朗 着想のかたち 4人のクリエイターが語る。』鈴木紀慶 編著(六耀社、2011年)

4人のクリエイターは、小説家の平野啓一郎、建築家の伊東豊雄、クリエイティブディレクターの小池一子、プロダクトデザイナーの深澤直人。4人の視点から見事に倉俣を浮き彫りしている。さらにエピローグとして編集者の川床優が論考を加えている。
伊東と小池は、その専門性よりのなるほどという説を述べている。驚いたのは平野である。平野は美術に詳しく、私もファンであり何冊かを読んでいる。ところが本論では、得意な美術からの視点ではなく、きちんとデザインからの論考を展開している。デザインが専門である私が読んで驚くばかりの理解力である。そして平野は「倉俣デザインのような小説を書きたい」と願い、それが叶わないことも明解に論じている。最後の数行が倉俣デザインを最も言い得ていると思うので全文を紹介する。「僕が倉俣さんの作品が好きなのは、『覚めない夢』だからです。夢の世界を表現すること自体は、難しくないのかもしれないけれど、ほとんどの作品は、大体見る人がどこかで、目が覚めますよ。けど倉俣作品は、いつまでもずーっと夢のまま、という感じがします。どこかで覚めるかなと思うけど、なかなか覚めない。そこが不思議な魅力なんでしょう。それに本当の夢は触れないけれど、彼のつくったものは身体を通じて感触を確かめられる。手触りがあって覚めない夢、ですかね。」小説家らしい美しい文で感動した。
深澤の倉俣論はまた素晴らしい。デザイナーならではの繊細で理路整然とした考察を語っている。倉俣デザインではあまり取り上げられない『傘立て』の魅力を「消えるデザイン」として大きな評価を与えている。そしてそれは発想のみを称えるのではなく、制作した職人の技を含めているところに、さすがデザイナーの視点と感じた。アートと大きく異なるところは、デザインと作品の間に多くの場合職人が加わることだ、そしてそれがクリエイションに大きく関わるということである。
ショップのインテリアデザインでは、「入り幅木」と「眠り目地」を取り上げ、『隅と縁とつなぎ目』を論じているが、倉俣の感性を称えるばかりでなく、繊細な仕事があっと驚く空間を作り上げていることを深澤はていねいに語っている。

08. 3月 2025 · March 8 , 2025* Art Book for Stay Home / no.161 はコメントを受け付けていません · Categories: 日記

『小林薫と訪ねる「美の巨人たち」』テレビ東京編、(日本経済新聞社、2004年)

「美の巨人」と言えば、レオナルド・ダ・ビンチかパブロ・ピカソか、はたまた北斎か。いいえ違う、テレビ東京で毎週放映されている「美の巨人たち」現在は「新美の巨人たち」の通称。2000年より始まってはや四半世紀、美術ファンにはたまらない番組である。テレビの映像技術がひたすら高度になっているのに、相変わらず音楽番組ばかりで、美術番組と言ったら、NHKの日曜美術館しかないというのが長く続いていた。今ではBS日テレの「ぶらぶら美術・博物館」、NHKの「美の壺」などなかなか嬉しいラインナップである。

さて本著、放映済みの中から魅力的な15話を収録、掲載美術作品はすべて美しいカラー版。文章はテレビのナレーションを聞くようにやさしい、いやこちらの方で「美の巨人たち」調になれたのだろうか。読んでいるとあの小林薫のナレーションを聞いているような気分になるから不思議である。

第1話ピカソ「ゲルニカ」では、「じっくりその絵を観たいのなら早目にホテルを出たほうがいいかもしれません。スペイン、マドリッド。135ペセタの切符を買って、地下鉄に乗りましょう。行き先は、マドリッド市内アトーチャの駅。地上に出れば街路樹のプロムナード。その先に目指す美術館、国立ソフィア王妃芸術センターがあります。・・・」というすべり出し、テレビの映像が目に浮かんでくる。終わりは「『ゲルニカ』。二十世紀。白と黒の因果。パブロ・ピカソの一枚。」あの名画の余韻が残る見事なラストシーン。

私は仕事柄、美術館でのギャラリートーク、美術講演会を数多くこなしているが、絵を語ることは本当に難しい。言葉で説明できるなら絵はいらないと言った声もある。本著を読んでやさしく語ることの難しさと素晴らしさを知った。

21. 2月 2025 · February 21, 2025* Art Book for Stay Home / no.160 はコメントを受け付けていません · Categories: 日記

『日本の美、浮世絵はどこからきたか』上河滉(文芸社、2008年)

「美術は難しいので、好きじゃないです」とおっしゃる方が大変多い。その場合、指しているのは西洋美術であったり、現代美術であったり、抽象作品であるようだ。そして解らないから苦手ということも大きな理由なのだろう。美術の全てを理解する、あるいは好きになるなどということは、美術館の学芸員でもありえないことだろうと思う。

そういう方に切り返して「では、浮世絵はどうですか」と問うと、少しほっとされる。浮世絵は「何が言いたいのか」ほぼ解る。役者絵、美人画、風景画、化け物画、春画、どれをとっても、風俗画であって、だから浮世絵という。そもそも庶民の誰もが解らなければ絶対売れない。解る、それが絵画の基本である。

さて、本著はその「浮世絵がどこから来たのか」と問う。世界を圧倒させたこの浮世絵の表現はどのように生まれたのか。世俗を楽しませるこのモチーフやテーマはどのように始まったのか。またなぜ世界の美術史に残ることとなったのか。著者は法学部の出身で、いわゆるサラリーマンである。国際浮世絵学会会員、アダチ伝統木版画技術保存財団賛助会員という肩書があるので、相当な浮世絵マニアであることには違いない。その著者が浮世絵について徹底した調査、学習のもとに書き上げている。とにかく誠実で、読者の疑問をことごとく答えようとしている。因みに個々の作品や絵師についての説明は必要最小限にとどめている。あくまで「浮世絵とは」である。

私は、浮世絵の個々の作品や絵師について当然興味深いが、別途社会的意味、影響に考えを及ばせることに関心が高い。「浮世絵はメディアだ」「浮世絵はマーケットだ」という視点を強く持っていて、美術史や造形性においてもそのことを欠かすことができないと考えている。本著においては、その考えにも肯定的な論考がいくつもあった。いわゆる美術の専門家ではない著者の力量に大いに感服した。本著を読めば、「浮世絵は解る美術」として、もっと好きになるだろう。

06. 2月 2025 · February 6, 2025* Art Book for Stay Home / no.159 はコメントを受け付けていません · Categories: 日記

『日本人にとって美しさとは何か』高階秀爾(筑摩書房、2015年)

愛知芸術文化センター1階にあるライブラリーで、図書を借りることが多い。名古屋栄のど真ん中で、少しの時間でも覗くことができる。つまりは返却も便利だ。中央の低い書棚の上に、お薦め図書が何冊か飾られている、そこで本著を見つけた。著者が昨年亡くなられたということもあっての紹介だろう。美術史、美術評論の領域では第一人者で100冊もの著作がある。何冊も読んでいて、美術評論では最も尊敬する一人である。2002年の全国美術館会議の情報交流会でお話することができた。嬉しい思い出である。

さて本著、根幹的なテーマが著名になっている。「美しさ」を語るなら美術ということになるが、本著は日本人における美しさそのものを問いかけている。ただ少し残念なことはテーマを論理的に追求したものではなく、講演、寄稿、論文などを集めたものである。集めるにあたって、本著名が付けられたようである。したがって、類似の内容が何箇所かあって、気分を削ぐところがあるのが残念である。そこを差し引いても名著に変わりなく、「日本人にとっての美しさ」はどこから来るのか、「何をもって美しいと考えるのか」深く納得する内容である。

特に、文学と美術は日本人にとって一体化したもので、互いに補完し合った構造であるとのこと。西洋はもちろん、中国においてもそういうことはない。俳句やエッセイを絵のテーマとしている私にとっては、我が意を得たりの論考であるが、著者の思いはさらに深い。最終章で「世界文化遺産としての富士山」を取り上げているが、日本が文化遺産を登録するにあたって、遺産名称を「富士山」としたが、イコモス(国際記念物遺跡会議)から名称を「富士山―信仰の対象と芸術の源泉」とするよう提案された。富士山は自然の美しさのみで語られるものではなく、長く文学、美術においてその美しさを育まれてきたものである。そしてそこに日本人独自の信仰がある。人工のものでは全くない自然のものが「自然遺産」ではなく、「文化遺産」として位置づけられたことに「日本人にとって美しさとは何か」が分かるような気がする。

21. 1月 2025 · January 21 , 2025* Art Book for Stay Home / no.158 はコメントを受け付けていません · Categories: 日記

『現代美術史 欧米、日本、トランスナショナル』山本浩貴(中公新書、2019年)

現代美術に関する著作を多く読んだ。「現代美術とはなにか」の答えは、多くの現代美術を観ることと、現代美術に関する著作を読むことであると確信するからである。そして多くの著作は「現代美術とはなにか」「現代美術入門」「現代美術事典」というもので、難解とされる現代美術の解説であった。
本著は「現代美術史」つまり「現代美術+美術史」である。これまで私の読んだ現代美術に関する本の中で「美術史」として捉えたものはなかった。歴史は過去のものであり、過去に遡って俯瞰することにより、どのような時代であったかを述べているものである。現代という時代は我々の生きているそのものであるので、歴史として捉えるには極めて困難である。本著における現代美術の定義が大きくものを言う。本著では現代美術を20世紀以降とし、特に第二次世界大戦後の現代美術を徹底解説して歴史として意義付けている。
現代美術が難解なもう一つの理由に、西洋美術史や日本美術史のように地域を限定しては語れないところにある。それをインターナショナルであるとか、グローバルであるという視点ではなく、トランスナショナルとしている視点が本著の極めて優れたところであると思う。現代美術の特徴として、ある都市で起きた事象、生まれた作品は、一瞬に他都市、あるいは都市という単位ではなく個人に転移する。インターネットによる情報は、美術に限ったことではなく、社会が反応して歴史が動いている。帯に「民族」「ジェンダー」「貧困」「差別」「戦争」「震災」「五輪」「万博」とあるが、現代美術がいかに世界の社会問題と関係しているかが本著のテーマでもある。「トランスインターナショナル」とした著者の視点に感服する。

06. 1月 2025 · January 6 , 2025* Art Book for Stay Home / no.157 はコメントを受け付けていません · Categories: 日記

『奇想の系譜 又兵衛―国芳』辻惟雄(ちくま学芸文庫、2004年)

痛快におもしろい本著は、1968年の『美術手帖』7月号から12月号にかけて連載された〈奇想の系譜―江戸のアヴァンギャルド〉の原稿に、筆者が加筆、長沢芦雪の一章を書き足したものである。単行本として美術出版社より出されたものが2004年に文庫本として出版された。

特に伊藤若冲が知られるきっかけとなった著書として注目されているが、ほかに岩佐又兵衛、狩野山雪、曾我蕭白、長沢芦雪、歌川国芳について紹介され、いずれも昭和の美術史では殆ど注目されていなかった江戸の画家を一気にメジャーに持っていったことで、日本美術史上最も秀逸な著書と言えるのではないか。

「奇想」については、鈴木重三の「国芳の奇想」という一文にヒントを得たとしている。著者は「江戸時代における表現主義的傾向の画家―奇矯(エキセントリック)で幻想的(ファンタスティック)なイメージの表出を特色とする画家―の」系譜を辿って見たとのことである。系譜は狩野派などの派に対してのもので、直接師弟の関係はないものの、互いに刺激し合ったり、インスパイアされたり、あるいは直接の接点はなく偶然も含めて一つの流れを見ることができるとしている。

日本美術史において全く見向きもされなかったこれらの画家が、大きく注目を浴びるようになったのは、本著の力が大きいのであるが、一方で現代美術による鑑賞者の視野の拡大を著者は指摘している。奇想の画家の登場は、現代美術作家に大きな影響を与えていることは明らかであるが、また現代美術ファンもまた奇想の系譜に喝采を送っていることも事実である。美術手帖への最初の執筆〈奇想の系譜―江戸のアヴァンギャルド〉を振り返ってみれば、アヴァンギャルド(前衛)に呼応しているわけで、著者はそのことを予期していたと思われる。隠された江戸美術という読み方と、現代美術という読み方の二通りがあるということだ。