『愛知洋画檀物語 PART Ⅲ―戦後現代美術』中山真一(風媒社、2025年)
著名からも伺えるように、愛知洋画檀物語シリーズ3冊目である。過去2冊(PART Ⅱは本ブログno.100で紹介)は、著名通り洋画檀であったが、本著は特に「戦後現代美術」についてとこだわっている。現代美術の定義は極めて難しいが、少なくとも既成の活動組織(画壇)にカウンターパワーをもつもの、あるいはその精神性を持つもの、また画壇とは異なる孤として創作に打ち込むものであろう。
さて本論、主に1945年生まれまでの愛知ゆかりの現代美術作家37名が取り上げられている。既に鬼籍となられた方も多い。1950年生まれの私は、1872年から名古屋に越して来て以降53年を経た。年間300から400の展覧会を観るために画廊や美術館を歩いた成果か、全員の名前と作品が一致し、半数の方と親しくさせていただく機会を得た。というわけで、本著を大変興味深く読むことができた。37名から特に愛知を舞台に活躍された作家を何人か上げておこう。
久野真、浅野弥衛、吉川家永、水谷勇夫、野水信、星野眞吾、中村正義、庄司達、国島征二、石黒鏘二、岩田信市、加藤大博、稲葉桂、森眞吾、近藤文雄、山田彊一、鯉江良二、久野利博、山村國晶、森岡完介、吉岡弘昭、小島久弥。私の個人的感覚では、「愛知の」という捉え方の重要な点は、一に作品、二に活躍である。本著でも取り上げられている荒川修作や赤瀬川原平、河原温らはもちろん優れた作家であるが、愛知の美術にどう関わったか、水谷勇夫、岩田信市、庄司達、山田彊一、久野利博、森岡完介らと比べてみれば明らかであり、論ずるまでもない。
公立美術館での個展開催や収蔵が、その作品に比べて全く追いついていないことを著者は何度も本著で指摘をしている。私もそのことに同感ではあるが、公立美術館の末端で館長という職にあるものからすれば、一美術館の問題ではなく、各自治体の問題であり、その住民意識の問題でもある。もちろんそういう見解は問題を曖昧にしてしまうことに違いなく、あくまで美術館の問題としなければならならないことも承知の上である。認識を共有とするなら、各美術館の収蔵費用を世界中でオープンにしてみればよいだろう。そして各自治体の総予算と比べてみれば、文化意識というものが明らかになるだろう。
本著では、先にも述べたように37名の作家が取り上げられている。一人2・3ページから数ページであるが、水谷勇夫、庄司達、山田彊一、森岡完介、吉岡弘昭については20ページほど割いて述べられている。活躍の幅、著者の関心、著者が社長を務める名古屋画廊との関わり、作家個人との交友歴などが要因として考えられる。徹底した客観性よりは、著者の主観が露呈するほうが圧倒的におもしろいが、本著はその両視点を踏ん張って書かれている。