20. 4月 2021 · April 20, 2021* Art Book for Stay Home / no.62 はコメントを受け付けていません · Categories: 日記

『ゴッホの復活』小林英樹(情報センター出版局、2007年)

ゴッホ研究で極めて著名な小林英樹の『ゴッホの遺言』『ゴッホの証明』に続く3冊目。この著書の主要はゴッホの3作「芦屋のひまわり」(1945年戦災により焼失)、「ジヌー夫人」(オルセー美術館蔵)、「東京のひまわり」(SOMPO美術館蔵)が贋作であるという証明にある。「芦屋のひまわり」「東京のひまわり」は本著における便宜上の俗称。

美術作品観賞に関しての論考については、大きく3つの立場があると思う。一つ目は美術史の立場(美術史家)から、2つ目は美術評論(美術評論家)の立場から、そして3つ目は美術作家としての立場から。それぞれ明確な区別はないが論考の主たる根拠をどこにおいているかということにある。

小林英樹は、東京藝術大学美術学部油画専攻の画家である。一般に作家というものは自らの創作に関わることでは著述があり、特に現代美術の分野では著述もまた創作の一環であるという考えがある。しかし、小林のように自作と関わらないところで多くの著述を展開している作家は極めて珍しい。それは作家として沈黙することができない、沈黙することは自らの創作をも否定することになるといった哲学のようなところから発しているのではないかと思われる。

『ゴッホの復活』で取り上げられた3作の贋作論考は画家ならではのもので、描く者が心身で獲得してきている絶対的自信に満ちている。例えば本文中の「種子や花瓶や背景などが、必ず最後には刺激的な油絵の具の物質的表情に行き着く」「頭で捻出したお堅い理論や方法論に沿って出したのではなく、直感的に、瞬時に画面上で表すことができるほど冴えわたった集中力と過敏な完成、そして的確に描き分けられる技術」「絵画には画家の魂の深さが出るものだ」「絵画は、その前に立って制作した画家と鑑賞者の位置を重ねられる特殊な表現」「画面上に置いた厚い油絵具が乾燥するまでの時間を考えれば」など。

また、真贋を明らかにするために「一、出所、来歴の検証」「二、科学的検証」「三、造形的見地からの検証」としている。一や二はそれを偽造することは可能でありそれの真贋もまた問われなければならない。三については最も優先される方法であると思うが、人間の判断能力に負うものが大きく、客観性に乏しいと思われる。したがって一や二がまかり通ってしまう。小林は三の造形的見地から出来得る限りの客観性をもって3点の贋作を証明している。

そして本著を読み終えた私もまた小林の指摘に100パーセント共感するものである。私もまた作家としての立場から。

10. 4月 2021 · April 10, 2021* Art Book for Stay Home / no.61 はコメントを受け付けていません · Categories: 日記

『キュレーターズノート二〇〇七―二〇二〇』鷲田めるろ(美学出版、2020年)

キュレーター鷲田めるろは、1999年より2018年まで金沢21世紀美術館キュレーター、2020年より十和田市現代美術館館長。本著は自らのキュレーターとしての活動をレポート、批評を加えたものである。主に金沢21世紀美術館在籍中のものであるが、そこにとどまるものではなく、第57回ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展日本館キュレーター、あいちトリエンナーレ2019キュレーター、金沢美術工芸大学客員教授など幅広い活躍が注目されている。

現代美術にスタンスを持つ鷲田は、美術、美術館、展覧会、プロジェクト、ワークショップをはじめ美術教育、地域の問題、まちづくり、芸術祭、都市とアートなど様々な関わり合い方によりアートの持つ可能性を拡げている。「これがアートか」という問いの前に、アートは何をなしうるのかが徹底している。そのために必要な知識に貪欲である。

個展などの単位から視点は見据えられ、都市や民族が生み出すダイナミズムへの視野へも欠けることがない。多くの興味深いレポートから「1980年代の日本の美術に関する展覧会を開催するに当たっては、金沢21世紀美術館は設立の20年前(1980年以降)からを収集の対象としていること」、現代美術の時系列に対して考え方を明らかにしていくことの重要性を語っている。「金沢21世紀美術館のデザインギャラリーにおいて、現代美術のキュレーターが持つ可能性とはなにか」、デザイン軸をずらすことなく立ち向かっている。「芸術祭と美術館の創造的関係について、これからどのような可能性と問題を孕んでいるか」、あいちトリエンナーレ2019「表現の不自由展」にキュレーターとして真っ向から取り組んだ経験を通して提議している。

清須市第10回はるひ絵画トリエンナーレ審査員の一人としてお願いした。一点一点の絵画作品から見えてくる多様な問題を提起いただいた。今後の清須市はるひ美術館にとって刺激的なメッセージとして活かしていきたい。

01. 4月 2021 · March 30, 2021* Art Book for Stay Home / no.60 はコメントを受け付けていません · Categories: 日記

『ピカソ 剽窃の論理』高階秀爾(ちくま学芸文庫、1995年)

ピカソが1973年に亡くなって間もない頃、1976年高階秀爾氏が『ピカソ 剽窃の論理』を出版、当時大好評を得た著書である、本書はその増補版。剽窃とは一般に「他人の文章・語句・説などを盗んで使うこと。」とされている。美術界の巨人として高い評価を得ているピカソに対して「ピカソ 剽窃」は強烈なインパクトを放つ著名であった。

増補版を刊行するにあたって著者は「『剽窃』という言葉は、通常そうであるように、否定的意味で用いられているのではない。それは、他人の作品を下敷きにしているという点では模倣であり、借用であるが、同時に、借用したものに基づいて奔放自在に自己の創造力を展開して見せる点で、変奏と呼んだほうがよいかもしれない。」としている。がしかし、著者が敢えてこの断り文を置いているところを思うと、多くの人が「ピカソの盗作」と思うであろうことを予想をもしているのである。そういった両方の意味で本著の魅力があると私は思う。この手法が巨匠ピカソであるから成立するのであって、並の作家においては大変危険な手法であることは言うまでもない。

本文では、ピカソが「借用したものに基づいて奔放自在に自己の創造力を展開して見せる」ところを見事に紹介している。そこには、ドラクロア、ルノワール、モネ、ドニ、ドガ、ゴッホ、ロートレック、ベラスケス、クラナッハ、デューラー、ティツィアーノなど錚々たる顔ぶれが登場する。ピカソにしてみれば、借用するものは不出来なものであってはならないと言った論理だろうか。名画こそ名画を生むといったことも言えるだろう。ピカソにおいても剽窃の下敷きになっている作品名や作家名を堂々と自作のタイトルとしているので、そこには後ろめたいものは全くないのである。

画家を志す若い作家にはぜひ読んでいただきたい本である。私が美術大学で教員をやっていた頃、多くの学生作品に自らの好きな作家に似ている、中には酷似しているものがあった。そのことを指摘すると似ていないと否定したり、似ていることを悩んでいると告げたものだ。私は「若いうちは、大好きな作家の作風に似るのは当然のことである。それだけ君が勉強していると言うことだ、大丈夫、絶対同じものは描けないから。近づけば近づくほどその違いが見えてきて、自分が見つかるから」と大好きな作家に強く影響を受けることを肯定した。熱意ある学生たちは必ず自分を見つけていく、その回り道に過ぎない、いや近道かも知れない。大切なことは大好きな作家を尊敬し続けることだ。ピカソもきっとそうであったと思う。