24. 2月 2022 · February 24, 2022* Art Book for Stay Home / no.87 はコメントを受け付けていません · Categories: 日記

『ムーミンの生みの親、トーベ・ヤンソン』トゥーラ・カルヤライネン/セルボ貴子・五十嵐淳訳(河出書房新社、2014年)

トーベ・ヤンソンに自伝はない。画家、漫画家であるとともに小説家、脚本家(ほかに挿絵画家、風刺画家、童話作家、舞台製作者など多様)であったトーベにとって自伝を書くことの能力は何でもなかったはずだが、書かなかったのはそこに興味がなかったということだ。しかしこうも言っている「私の自伝はきっと誰かが書いてくれるだろう」と。そういう思いがあったのだろう。トーベは膨大な量の手紙を友人、恋人たちに書き残している。そしてそれが手記とともに公開されることも了解している。

著者トゥーラ・カルヤライネンは、美術史家であり作家で、元ヘルシンキ市立美術館、ヘルシンキ現代美術館館長でもある。トーベ・ヤンソン生誕100周年を記念してヘルシンキのアテネウム美術館で開催された大規模な回顧展のキュレーターを努めている。

A5判350ページに及ぶ本著は、ヤンソンが生まれる前、父となるフィンランド人ヴィクトル・ヤンソン(愛称ファッファン)と母となるスウェーデン人シグネ・ハンマルステンの出会いから始まる。ヤンソンがどのような環境で学び、成長していくのかが克明に記されている。画家として、小説家として早熟な評価を受けて、さらなる活動に入らんとする状況で第二次世界大戦に突入する。フィンランド下において続いたナチスドイツとロシアとの戦争は、多くのフィンランド人を苦しめ、トーベもまた精神的苦痛に追い込まれている。そのような中で、平和と幸せの希望の兆しとしてムーミンが誕生していく。

戦後になって、トーベの描くムーミンの大活躍は、フィンランド、スウェーデン、イギリス、日本と世界に広がっていくわけだが、生涯に渡って大切な恋人、友人たちとの交流がトーベを支え、成長への礎となっていた。

もちろん、ムーミン一家はヤンソン家族と大きく重なるもので、特にムーミンママである母ハムの存在は、トーベの人生にとって未来であり、影であり、トーベ自身でもあった。87歳、人生を愛と芸術に捧げることができたトーベの苦悩と幸福を共にすることができる著作である。

15. 2月 2022 · February 14, 2022* Art Book for Stay Home / no.86 はコメントを受け付けていません · Categories: 日記

『河北秀也のデザイン原論』河北秀也(新曜社、1989年)

『デザイン原論』は難しそうなことを書いてある本という印象である。読み始めてみると全く難しいことではない。まあ一つは私も河北と同じデザイナーであり、教職にあって、同世代であるというかなり近い立場にあるので「難しいことではないですよ」と言っても説得力がないかもしれない。

デザイン原論は究極のところ、「デザインとは何か」である。河北は「人間の幸せという大きな目的のもとに、創造力、構想力を駆使して、私達の周囲に働きかけ、様々な関係を調整する行為が『デザイン』である」と明言する。私も全く同感、機会あるごとに「デザインとは何か」を述べてきた。河北も私もそれを何度でも述べなければならない立場、機会にあったということだ。それはデザインが「色や形、素材などの造形的な行為を行って、シャレたもの、流行にあったものを作ること」のような一般的理解にあるからである。その根幹にあるものはデザインを意識して学ぶのは小学校の図工であり、中学・高校の美術であるから誰もがデザインは美術の一部であると誤解してしまう。教育も美術の一部として行われている。しかも専門にデザインを大学で学ぼうとするならば、芸術大学や美術大学に行くしか方法がないのである。結果、多くのデザイナー自身も美術の一部として認識し、造形行為から抜け出せないでいる。デザインを考えること、理解することは美術領域ではない。イギリスやアメリカの一部の州では小学校の社会科でデザインを学ぶ。人が社会人として生きていくためにはデザインが必ず必要だからである。

『河北秀也のデザイン原論』では、「デザインとは何か」「デザインにとって必要なことは何か」「デザインの重要性」「デザインの魅力」について、アートディレクターとしての河北自らの体験を通して語られている。「いいちこ」のポスターに限らず、多くの領域で優れたデザインを生み出せているのはこのデザインに対する考え方がぶれないからであり、正論であるからだ。

01. 2月 2022 · February 1, 2022* Art Book for Stay Home / no.85 はコメントを受け付けていません · Categories: 日記

『サティ ケージ デュシャン 反芸術の透視図』鍵屋幸信(小沢書店、1984年)

著者鍵谷幸信は英文学者、詩人、音楽評論家である。サティ、ケージの連なりにデュシャン、3人について書かれたものと言うよりは、反芸術に主体が置かれている。しかし、しかめっ面をした難解なものではなく、そこは快楽の世界と言わんばかりの反芸術だ。

現代音楽、現代美術、現代詩、鍵屋幸信は日常生活の楽しみとして、研究者として、仕事として反芸術に身を置いている。私は300ページを超える本著に身を寄せて、サティの音楽をBGMに、ランチをしながら、コーヒーを飲みながら、ウイスキーを楽しみながら1ヶ月ほどかけて読んだ。

キーマンはデュシャンだ。読みすすめるうちにデュシャンの人間像が浮かび上がって来る。デュシャンの作品を理解しようとすればするほど理解は遠のいて、つまりは「表現しようという行為をしなかったことである」と答える。デュシャンが「既成の芸術や芸術家の概念をてんぷくさせて、一掃させた」ということもまた我々の幻想かも知れない。大好きなチェスに興じながら「問題がないのだから解決はない」と言い放つ。それでも鍵屋は「デュシャンによって旧来の芸術の権威がグラリと傾いたことだけは誰も否定できないだろう。」と語る。

サティ、ケージ、デュシャンと並べても本著はやはり主として美術の本で、ニューヨーク・ダダの三羽烏、マン・レイ、フランシス・ピカビアを登場させる。かと思えば詩人ウィリアム・カルロス・ウィリアムズの詩を掲げ没頭する。美術評論家東野芳明や音楽家一柳慧との対談を楽しみ、瀧口修造との音楽、美術、詩、評論の至福の時間を過ごすのである。

多くの芸術愛好者たちが肩に力を入れて読み、観、聴き解こうとするサティ、ケージ、デュシャンであるが、私は鍵谷幸信のエッセイとして読んだ。