29. 11月 2022 · November 28, 2022* Art Book for Stay Home / no.106 はコメントを受け付けていません · Categories: 日記

『女の子のための現代アート入門 MOTコレクションを中心に』長谷川祐子(淡交社、2010年)

バス待ちの30分、近くに大きな書店があると嬉しい。たいていは美術書コーナーへ、立ち読みも楽しいし、思いがけず購入書が見つかると充実の待ち時間となる。

そのような機会に、この強烈なオペラピンクの表紙は嫌が上でも目に入り、手にとってしまった。『女の子のための・・・』の書名に嫌悪が走る。大人の女性に対して「女の子」という呼び方は嫌いだ。「女の子」と呼ぶべきは小学生までだろう。本著は『・・・現代アート入門』である。作品写真は多く掲載されてはいるが、文章は美術専門用語が多く、外国語も多く使われている。決して低年齢層のために書かれたものではない。つまりここで使われている「女の子」は「若い女性」のことであるのだろう。近年は中高年の男女とも若い女性に「女の子」という呼称を使う。また若い女性たち自身も自ら「女の子」を使う。使う場所、使い方によってはセクシャルハラスメントと判断されるものである。自ら「女の子」を使うのはそこに幼い自分を認識し、幼い自分でありたいという甘えの構造があると思える。

本書『女の子のための現代アート」は、そうした女性たちに向けてつけられた書名であると思われる。しかし内容は「現代アート入門書」であって、決してそのような志向で書かれたものではない。穿った見方だが、「現代アート入門書」を書いた後で、この方向性が被せられたのではないかと思える。サブタイトル「MOTコレクションを中心に」は、著者長谷川祐子がMOT(東京都現代美術館)チーフキュレーター時代(現在は金沢21世紀美術館館長)に書かれたがゆえのものであって、MOTのミュージアムショップに並べられることを前提としたものだろう。

15. 11月 2022 · November 15, 2022* Art Book for Stay Home / no.105 はコメントを受け付けていません · Categories: 日記

『日本流 なぜカナリヤは歌を忘れたか』松岡正剛(朝日新聞社、2000年)

著名と著者に惹かれて、発売後すぐ購入し読んだ。22年前、50歳のときである。改めて読んでみた。相当数の傍線が引いてあるのに、殆ど記憶がない。20余年の成長なのか、忘却なのか、おかげで楽しく読むことができた。

このブログでArt Bookと定義しているのは、相当に幅が広い。本著は創造の源、創造のよりどころである。美術表現を行おうとする場合、いくらデッサンを積み上げても絵はかけない。デッサンは手段であって何を描きたいのかの源を鍛えるものではないからだ。究極的にデッサンを続けることで創造の源が刺激され、何を描きたいかが見えてくるという考えもあるが、それはデッサン至上主義の論であり、多くの場合そうではない。例えば現代美術作家として活躍する奈良美智は、愛知県立芸術大学の学生であった頃、「殆ど大学には行かずロックばかり聴いていた。あの頃の僕が今を支えている。」と語る。「創造の源は美術訓練からはやって来ない」というのが私の論である。

さて本著「日本流」は、「日本らしさ」「日本風」「日本的」など私たちが日本と呼ぶものは一体何なのか、という問いにあらゆる角度、分野から答えている。

著名に添えられている「なぜカナリヤは歌を忘れたか」は、大正時代日本で最初に歌われた童謡「カナリヤ」である。残酷とも言える悲しい歌をなぜ子どもたちに歌わせなければならなかったのか。「十五夜お月さん」「雨」「七つの子」「赤い靴」「青い眼のお人形」と悲しい童謡が紹介される。私たちはなぜ悲しいものに日本を想うのか。

本著では他に「多様で一途」「職人とネットワーカー」「仕組みと趣向」「江戸の見立て」「日本に祭るおもかげとうつろい」「日本と遊ぶ」「間と型」など、「ああそういうところに日本ってあるよね」という指摘が膨大な事例をもとに説明される。

松岡正剛の全時代、グローバルな文化、あらゆる領域を持って「危うい日本的なもの」を改めて考えてみると、「日本画は何を描くべきなのか」「日本における洋画とは何なのか」「おきものと彫刻はどう違うのか」「新しきデザインと古き民藝の価値の見方はどう異なるのか」・・・アートにおける様々な問題が提示されてくる。

80歳になったらもう一度読んでみたい本である。