04. 3月 2020 · March 3, 2020* 石牟礼道子『椿の海の記』命の記憶のはじまり はコメントを受け付けていません · Categories: 日記

石牟礼道子著『椿の海の記』(1976年、朝日新聞社)

 

私の本棚に45年間あって、すっかり黄ばんでいる。

果たして読んで忘れているのか、読んでいないのか、椿のタイトルに惹かれて開いてみた。

記憶が蘇らないので、おそらく読んでいないのだろう。

 

1928年、水俣川の河口で生まれ育った石牟礼道子の記憶を辿る自伝。

昭和のはじめ、社会の底辺で逞しく生きる水俣の人々の暮らしが、みっちん(石牟礼道子)の記憶のはじまりから描かれている。

地に川に海にへばりつくように生きる村の人の中に、みっちんの記憶が開始する。

友だちもいるが、みっちんは大人が好きで大人に可愛がられ大人を友だちとして生きる。

そこには風習や迷信、謂れ、畏れ、祈りがあり、小さなみっちんはある日、狐になりたくて薮で狐を装う。

が、ちっともしっぽの生えて来ない自分のお尻にがっかりする。

 

家のそばにあった郭の妓や、髪結のおばさんとも仲良し。

そんなみっちんは親や叔母の留守に、鏡台、タンスから化粧、着物を盗み出して花魁になりすます。

通りをしなやかに歩き一人花魁道中を繰り広げる。

 

山の野の海の命をいただいて、貧しいが貧しいことを知らず、痛快と哀しみと生きる歓びが力強い。

水俣病の原因となる日本窒素肥料の工場もすでに建つ景色の中で、風土に生きる人々が美しい。

69歳の今まで、読むことを遠ざけていてくれていた『椿の海の記』に感謝。

石牟礼道子の代表作『苦海浄土 わが水俣病』は、文明の病としての水俣病を鎮魂の文学として描き出した作品として絶賛された。

同作で第1回大宅壮一ノンフィクション賞を与えられたが、受賞を辞退している。

石牟礼道子の句「死におくれ死におくれして彼岸花」が身に沁みる。90歳パーソンキン病にて死去。

04. 3月 2020 · March 1, 2020* MUSA-BI展、その多様性。 はコメントを受け付けていません · Categories: 日記

岐阜県池田町にある極小美術館にて「MUSA-BI展」が始まった。

オープニングレセプションに出席。その多様性と密度の高さに充実の時間を過ごした。

 

MUSA-BIとは武蔵野美術大学の略称であり、愛称でもある。

殆どの大学は略称で呼ばれているが、美術系大学も同様である。

東京藝術大学を芸大、多摩美術大学を多摩美、女子美術大学を女子美と呼ぶ。

この地域では愛知県立芸術大学を県芸(ただしこの地域でしか通じることはなく、「愛知県芸」という全国区的呼び方と、愛知県立芸術大学関係者限定で自ら「芸大」と呼ぶ呼び方がある)、

名古屋造形大学を造形(全国的には名古屋造形)、名古屋芸術大学を名芸(メイゲイ)と呼ぶ。

ただしご存知のように名古屋を名(メイ)と略するのは、名古屋大学、名古屋駅をはじめ地域でしか通用しない。

 

少し話がそれたが、ムサビ、タマビはその歴史とともに他美術系大学とは極めて明確に差別化のできている略称である。

ただし漢字では武蔵美とも武美とも書くことが出来ず、カナでも迫力がない。そんなことでMUSA-BIになったのかと思われる。

大学名称でも展覧会名称でも名称は極めて重要で、その内容を決定づけてゆくものがある。

「MUSA-BI展」は、ディレクターを中風明世、アシスタントディレクターを矢橋頌太郎が務めている。ともに出品者でもある。

「MUSA-BI展」はもちろん武蔵野美術大学の卒業生によるものだが、芸術院会員の神戸峰男、土屋禮一をはじめ若手作家までその領域、年齢、作家活動まで多様性に満ちている。

重要なことはその質であるが、その上で武蔵野美術大学の歴史が見せる多様性であって、それは美術の使命そのものとも言える。

展覧会は4月5日まで、090-5853-3776まで必ずアポイントをとって来館。

極小美術館http://www.kyokushou-museo.com