05. 3月 2023 · March 5 , 2023* Art Book for Stay Home / no.114 はコメントを受け付けていません · Categories: 日記

『入江泰吉 私の大和路春夏紀行』『入江泰吉 私の大和路秋冬紀行』入江泰吉(小学館文庫、2002年)、『入江泰吉 万葉花さんぽ』入江泰吉/写真・中西進/文(小学館文庫、2003年)

手軽に手にとって楽しめる入江泰吉大和路写真とエッセイの3冊である。写真家や画家の自作説明本などというものは多くはないし、あまり読みたいと思うものではない。だがその創作の想い、手がかりというものは覗いてみたいものである。「私の大和路」は入江泰吉自身のエッセイで、「万葉さんぽ」は万葉集など古代文学を中心に研究する国文学者の中西進の文である。

入江は奈良に生まれ、東大寺の旧境内地で育ったという大和人である。大阪で写真店を開くものの戦災で消失。失意の中、戻ったふるさとで出会った大和の美しい風景、ひたすらに大和路とそこにある仏像に取り憑かれ、撮りつづけた。

入江が撮りつづける大和路も少しずつその美しさが失われていく。愛しむように、祈るように、残さねばならぬと命を削るように撮った風景がそこにある。戦後の50年、入江の感性と、撮影能力と、大和路への想いと、その時代にしかなかった風景が写真に残されている。

大和路を散策しなければこの風景と出会うことは敵わないというものではない。多くの日本人が、自らのふるさとに見ることができた何かがそこに写されていて、大和路の特別な風景であるはずのものが、誰もがなつかしく感動を蘇らせるものでもある。手元において、時おり広げるページには、幼き日に過ごしたなつかしさと、やさしさに包まれることができるだろう。

21. 2月 2023 · February 21, 2023* Art Book for Stay Home / no.113 はコメントを受け付けていません · Categories: 日記

『ジャン・コクトー 幻視芸術の魔術師』高橋洋一(講談社現代新書、1995年)

美術を勉強したくて美術書を読む、どの美術書を読むかとても難しいように思える。間違いのない方法論は「興味を惹くものを読む」といった単純なものだ。どの作家が好きなのか、その作家の時代はどのようなものであったのだろうか、その時代は他にどのような作家がいるのだろうか、技法的な興味もあるだろう。知りたい知識とともに読みたい本もどんどん広がっていく。時には興味と離れたところを読むと、自分の世界を広げてくれる。

美術のために美術書を読むのではなく、文学、音楽、演劇、映画、ダンス・・・。それも美術と関わって、美術の視点を持って読みたい。そこにジャン・コクトーがいる。ジャン・コクトーは、詩、小説、評論、絵画、演劇、バレエ、ジャンルを越えて活躍した。19世紀末から、2つの大きな戦争を跨いで現代へつながる芸術のうねりの渦中で、その名を轟かせた。最もエネルギッシュであったフランス、パリで。

美術で言えば、キュービスム、ダダイスム、シュールレアリスム、常に最前に立って、なおかつ群れから距離を保った。この時代も現代も多領域を場とすることは、高い評価を得にくい。評価はいつもその専門領域の中で用意されている。領域を越える者はいつも異端だ、そうコクトーは異端であり続けた。評価よりも領域を越え続ける魅力に遊び、異端を楽しんだ。

多領域の中で、最もコクトーが華やいだのは舞踊である、そしてその精神を貫いているものは詩であると思われる。全ての芸術表現において、常に核をなすのは思想であり、精神である。コクトーは確かに技術的にも人間的にも器用であったが、そのようなことは重要なことではない。圧倒的な思想を支える精神であり、そこに詩で磨かれた輝きがあった。ぜひ美術のための美術ではなく、美術のための何かを本著から掴んで欲しい。

10. 2月 2023 · February 10, 2023* Art Book for Stay Home / no.112 はコメントを受け付けていません · Categories: 日記

『エーゴン・シーレ 日記と手紙』大久保寛二編・訳(白水社、1991年)

本訳書は『エーゴン・シーレの手紙と散文』(アルトゥル・レスラー編、1921年、ウィーン、リヒャルト・ラー二イ書店発行)に掲載されたシーレの文章の全訳である。シーレの散文、詩、日記、さらにスケッチブックに記された妻へのメッセージから構成されている。訳に徹して行われており、一般には「エゴン・シーレ」と表されるが、原語発音に忠実に「エーゴン・シーレ」と表記されている。

28歳の短命の中で、多くの文を残したことは、シーレ研究における貴重な資料となっており、評論を一切加えない本訳書は、その意味で脚色のないシーレ自身に出会う貴重なものになっている。私自身が本訳書から得た印象は、極めて几帳面であり、こういう友人がいたら大変面倒くさいであろうというのが本音である。中でも殆どの手紙における筆跡は、印刷書体に極めて忠実で、読む側に立ってみれば、シーレがどれほど切実にこの手紙を書いたかと感ぜざるを得ないのである。そして最も多く出したアルトゥル・レスラーへの手紙(71通)の内容は、絵の具やキャンバスを購入するための金銭の欲求、更には作品を販売するための便宜である。アルトゥル・レスラーは美術批評家であり、画商も行う当時ウィーンの実力者で、シーレを物心両面で支えた人物である。シーレはフィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホを尊敬し、ときに自らをゴッホに同化させることもあるが、レスラーはゴッホにおける最大の支援者弟テオに値する。しかしシーレが短命の中で2000点以上もの作品を残せたことは、レスラーの能力に負うところが大きいことが本訳書から読み取ることができる。

他に特筆すべきことは、第一次世界大戦の勃発で、25歳から兵役に服したことである。画家という職業が考慮され戦場に向かうことはなく、几帳面な能力にも配慮され殆ど事務的な仕事に終止したものの、描かなければならない特別な自分にとって、悲鳴を叫び続ける任務であった。28歳の短命を振り返ってみると惜しまれてならないのである。

02. 2月 2023 · February 2, 2023* Art Book for Stay Home /no.111 はコメントを受け付けていません · Categories: 日記

『黒い太陽と赤いカニ 岡本太郎の日本』椹木野衣(中央公論新社、2003年)

「岡本太郎とは何者か」という問いは太郎に限って非常に的を得たものである。正体が掴みにくいのである。一言で芸術家である。絵も彫刻もモニュメントも壁画も作るが芸術家であって美術家ではない。論述、エッセイは多いが著述家ではない。テレビにはいっぱい出ていたがタレントではない。有名な芸術家ではあるが、意外と作品集は少ない、没後出版が相次いでいるが。岡本太郎についての著述は、太郎も、養女敏子も美術評論家山下裕二なども太郎については絶賛型である。太郎全体がポジティブで覆われているのである。

椹木野衣の本著は、そういうポジティブなものではない。「岡本太郎とは何者か」に最も肉薄した一冊と言えるだろう。椹木の美術評論家としての経験も比較的浅い41歳という中、全力で太郎を暴いている。なぜ岡本太郎は美術家ではなく芸術家なのかが明解に著されている。

その根拠を示す。一つは長くパリに住んだが、パリは他のすべての美術を志すものたちが憧れて、学びを求めて住んだのに対して、漫画家と小説家の両親に連れられてやむを得ず住んだこと。先ずフランス語を身に着け、哲学、宗教学、芸術学を学んだこと。そこにはフランス芸術の尊敬はあるものの、コンプレックスはない。ただひたすら「芸術とはなにか」に終始して生きてきた。

一つは美術以前に父一平を通して漫画があったこと。現代においては当たり前であるが、少年時代に漫画にどっぷりと浸かり、その漫画を封印することで美術に向かうという生き方を世界で最初に実践した人であること。

そうした一般に美術を志した者とは大きく異る太郎であるがゆえに、べらぼうな『太陽の塔』があり、『縄文土器論』があり、メキシコで描かれた巨大壁画『明日の神話』がある。

若い椹木が太郎に押しつぶされないように、どれだけ太郎を調査し、追究したであろうかが確固たる論を敷くことで太郎絶賛型の口を封じたと言える。

17. 1月 2023 · January 17, 2023* Art Book for Stay Home / no.110 はコメントを受け付けていません · Categories: 日記

『既にそこにあるもの』大竹伸朗(新潮社、1999年)

大竹伸朗の肩書は、現代美術作家、あるいは画家。武蔵野美術大学油絵科を卒業し、ひたすら作品を作り続けている。油絵科卒業なので、画家であるがいわゆる額縁で縁取られた油絵は全くない。油絵の具も使うが、他の絵の具やペンキも使う。キャンバスを使うが、多くはありとあらゆるものに描く、それが立体物、あるいは「既にそこにあるもの」、印刷物や看板、平面に限らず立体的なものも多い。写真だけでなく、映像もあればネオンのような発光体もある。いわゆる美術作品という概念からムチャクチャはみ出している。そういうものをなんとか呼ぼうとするならば現代美術しかないだろう。

大竹伸朗のことを現代美術作家ととりあえず呼ぼう。しかし、バンドのメンバーであり、6枚のCDをリリースしている。もちろんコンサートも行う。また東京アートディレクターズクラブADCグランプリ、ニューヨークADC国際展優秀賞、ロットリングイラストコンペ一等賞などデザインや絵本での受賞歴も多い。その領域にタブーはない。大竹自身の興味が喚起されるところ、あらゆるところにアメーバーのごとく繁殖してゆく。

そしてこのエッセイ、イメージ豊かな語彙と確かな文章力、作品から一見受けるものとは大きく異なっている。いや作品表面から受けるイメージというのは、直感的には正解なのだろうが、そのもう一つ奥にあるものを観たいものである。本著はそういった大竹のスピリットと制作現場に立ち会う一冊だ。

15年ほど前、学長を務めていた名古屋造形大学の卒展記念講演で大竹を呼んだ。同行していた多くの時間、口数が少なく、常に何かを見つめ、何かを思考しているといった具合であった。本著を読んでそのとき脳内で何が起きていたのか解る気がした。

11. 1月 2023 · January 11, 2023* Art Book for Stay Home / no.109 はコメントを受け付けていません · Categories: 日記

『芸術のパトロンたち』高階秀爾(岩波新書、1997年)

芸術創造の長い歴史のうえで芸術の保護者たるパトロンの果たした役割は大きい。富と権力を誇るルネッサンスの王侯貴族や教会、新興の近代市民階級、コレクターや画商、現代の政府・企業。 彼らは芸術のあり方にどんな影響を与えたのか? 美術館や展覧会が登場した意味とは? 社会的・経済的担い手とのかかわりに光をあてるユニークな美術史。(表紙カバーより)

美術史家として、美術史が美術のためにあるのではなく、社会史の中に存在することを多くの自著で語ってきた高階秀爾名著の一冊。画家や彫刻家は、今でいう芸術家である前にかつては全てが職人であり、芸術家という認識がいつどのような状況から生まれてきたのか。芸術家と呼ばれる現代においても、王侯や貴族が市民に置き換えられたに過ぎず、その市民は決して一般市民ではなく美術を生業とする市民、美術を愛する市民のことである。絵画や彫刻、あるいは現代美術においても作品が発表され、評価を受け、流通(美術館に収蔵されることも含めて)していくことは、パトロンの存在なくしてはありえないのである。

私はデザインから学びをスタートし、デザイナーとして50年、アーティストとして20年、そうした体験で見積もりからスタートするデザインと、常に評価や評価格とともにあるアートは極めて類似の構造を有していると考えている。ただデザインには絶対的な用の役割があり、用の賞味期限(例えばポスター)があるということである。

アーティストがパトロンに服従するという構造の中でも歴史的名画は誕生する、パトロンがなければその名画は生まれていない。多くの現代美術が脱パトロンを試み、美術品という流通価格から逃れたとしても、必ず記録されその評価、保存が行われる。そこには新たなパトロンの存在なくしては残ることができない。

本著は美術史にみる美術を楽しむ大きな手引になるとともに、美術の変遷がいかにパトロンの変遷によるものかが見えてくる。そしてそれは現代も継続されている。

 

27. 12月 2022 · December 27, 2022* Art Book for Stay Home / no.108 はコメントを受け付けていません · Categories: 日記

『中部美術縁起』馬場駿吉編(風媒社、2022年)

「本書は『中部美術縁起』というタイトルの下に、2018年(平成30年)4月から2020年(令和2年) 3月まで、ほぼ2年間にわたって中日新聞夕刊(祝日等の休刊日を除く金曜日)に連載された論説を集約し一冊としたものである。 執筆者は中日新聞編集局文化部で選ばれた美術にかかわる様々な領域の学識者、作家など16名がリレー執筆するという形式で進められた。そのうち1名の方が、個人的理由で辞退された(略)」編者あとがきより。

 執筆者は誰か、本著の魅力と深く関わるものなので、所属・肩書(執筆当時)もそのまま転載する。馬場駿吉(美術評論家・元名古屋ボストン美術館館長)、 拝戸雅彦(愛知県美術館企画業務課長)、栗田秀法(名古屋大学大学院教授)、 高橋綾子(美術評論家・名古屋造形大学教授)、 中山真一(名古屋画廊社長)、 佐藤一信(愛知県陶磁美術館学芸課長)、 笠木日南子(アートコーディネーター)、武藤隆(建築家)、島敦彦(金沢21世紀美術館館長)、岡本光博(美術家)、 小田原のどか(彫刻家)、 ホンマエリ(美術家(アートユニット キュンチョメ))、田中功起(美術家)、小泉明郎(美術家)、 副田一穂(愛知県美術館学芸員)※執筆順。

馬場から佐藤までは「豊かな地域文化展望として」という副題があり、作品が誕生し育まれ、作家が活動する場に主に焦点が当てられている。画廊や美術館、教育現場を通して、全て中部地域における実名施設、実名作家での論考は、私などリアルに現場を観てきた者にとっては極めて興味深い。もちろん観ることが叶わなかった部分が殆どであり、知識の層に厚みをもたせてくれる。中でも「公共空間と芸術」についての高橋の論説は、多視点に立っての冴えた文章力が一際楽しく読むことができた。

笠木日南子から小泉明郎までは、当時開催されていた「あいちトリエンナーレ2019」における「表現の不自由展・その後」に関わってのものである。読者としては展開が急にタイムスリップしたかのように現代に押し出される。しかし、本著は新聞連載の論説である、国内芸術祭最大の問題を無視して新聞というジャーナリズムはありえない。8人の執筆者は騒動の中、全くたじろぐことなく書き切っている。少し視点の異なる小田原の「津田大介芸術監督による招聘作家男女同数の実現」についての論説は、私自身が強く関心を持っていたこともあって、その的確な指摘に感銘を受けた。

最後に副田の「美術を記録する」は、本著『中部美術縁起』に収められていることに違和感を覚えた。美術館学芸員ならではの作品保存、紹介、記録等、赤裸々にレポートされている。そのことは『中部美術縁起』から離れて、なお美術作品、美術活動、美術教育において極めて重要なことであり、ぜひ別著として成就していただきたいものである。

「15名による新聞連載の集約を一冊の著書に」は、読者を戸惑わせる事が多かったが、中部美術過去現在未来という点で貴重な集積となっている。

16. 12月 2022 · December 16, 2022* Art Book for Stay Home / no.107 はコメントを受け付けていません · Categories: 日記

『増補版 ゲルハルト・リヒター 写真論/絵画論』ゲルハルト・リヒターほか、清水穣訳(淡交社、2005年)

増補版とあるように、本著は1996年に原著”Gerhard Richte Texte:Schriften und Interviews.“の抜粋訳として出版されたものに増補されたものである。9ページから16ページに渡って、本著に関わるリヒターの重要な作品をカラーで紹介。25ページからは第一章「INTERVIEWS 19721993」として、リヒターへ6人のインタビュー。インタビュアは美術史家、美術ジャーナリスト、美学者、美術評論家、キュレーターの論客である。139ページからは増補版として第二章「INTERVIEWS 20012005」、更に4人の論客のインタビュー。233ページから「NOTES 19621992」としてリヒターのエッセイが綴られている。

リヒターについて、多くのインタビュアがキーワードにしているのは、その作品の多様性である。画家(リヒターは自らを画家とする)リヒターのスタイルが固定されないことだ。90歳という長命の作家がピカソのように多様なスタイルを持つことは理解されるが、ピカソの場合、「青の時代」「薔薇の時代」「キュビスム」「アニミズム」と時系列される。リヒターは、フォトペインティング、グレイペインティング、アブストラクトペインティング、カラーチャート、ガラスなど多岐に渡り、かつ時系列ではない。そこにインタビュアは戸惑い、その理由を求める。リヒターは飄々として「そうかも知れないし、そうでないかも知れない、それは両方とも私である」とする。強く主体的であることを拒むかのようだ。

リヒターにとって、造形的スタイルは結果としてあるものであり、追求すべき価値ではない。大切なことは「絵画とはなにか、絵画に何ができるのか、絵画の未来の可能性」である。「見る」こととはどういったことなのか、多くの画家達が当然のこととしてきた絵画の常識を突き放し、新たな絵画を提示し続ける。そこに大きく関わって写真がある、写真論/絵画論は別々のものではなく、一体であり、混然としたものである。

29. 11月 2022 · November 28, 2022* Art Book for Stay Home / no.106 はコメントを受け付けていません · Categories: 日記

『女の子のための現代アート入門 MOTコレクションを中心に』長谷川祐子(淡交社、2010年)

バス待ちの30分、近くに大きな書店があると嬉しい。たいていは美術書コーナーへ、立ち読みも楽しいし、思いがけず購入書が見つかると充実の待ち時間となる。

そのような機会に、この強烈なオペラピンクの表紙は嫌が上でも目に入り、手にとってしまった。『女の子のための・・・』の書名に嫌悪が走る。大人の女性に対して「女の子」という呼び方は嫌いだ。「女の子」と呼ぶべきは小学生までだろう。本著は『・・・現代アート入門』である。作品写真は多く掲載されてはいるが、文章は美術専門用語が多く、外国語も多く使われている。決して低年齢層のために書かれたものではない。つまりここで使われている「女の子」は「若い女性」のことであるのだろう。近年は中高年の男女とも若い女性に「女の子」という呼称を使う。また若い女性たち自身も自ら「女の子」を使う。使う場所、使い方によってはセクシャルハラスメントと判断されるものである。自ら「女の子」を使うのはそこに幼い自分を認識し、幼い自分でありたいという甘えの構造があると思える。

本書『女の子のための現代アート」は、そうした女性たちに向けてつけられた書名であると思われる。しかし内容は「現代アート入門書」であって、決してそのような志向で書かれたものではない。穿った見方だが、「現代アート入門書」を書いた後で、この方向性が被せられたのではないかと思える。サブタイトル「MOTコレクションを中心に」は、著者長谷川祐子がMOT(東京都現代美術館)チーフキュレーター時代(現在は金沢21世紀美術館館長)に書かれたがゆえのものであって、MOTのミュージアムショップに並べられることを前提としたものだろう。

15. 11月 2022 · November 15, 2022* Art Book for Stay Home / no.105 はコメントを受け付けていません · Categories: 日記

『日本流 なぜカナリヤは歌を忘れたか』松岡正剛(朝日新聞社、2000年)

著名と著者に惹かれて、発売後すぐ購入し読んだ。22年前、50歳のときである。改めて読んでみた。相当数の傍線が引いてあるのに、殆ど記憶がない。20余年の成長なのか、忘却なのか、おかげで楽しく読むことができた。

このブログでArt Bookと定義しているのは、相当に幅が広い。本著は創造の源、創造のよりどころである。美術表現を行おうとする場合、いくらデッサンを積み上げても絵はかけない。デッサンは手段であって何を描きたいのかの源を鍛えるものではないからだ。究極的にデッサンを続けることで創造の源が刺激され、何を描きたいかが見えてくるという考えもあるが、それはデッサン至上主義の論であり、多くの場合そうではない。例えば現代美術作家として活躍する奈良美智は、愛知県立芸術大学の学生であった頃、「殆ど大学には行かずロックばかり聴いていた。あの頃の僕が今を支えている。」と語る。「創造の源は美術訓練からはやって来ない」というのが私の論である。

さて本著「日本流」は、「日本らしさ」「日本風」「日本的」など私たちが日本と呼ぶものは一体何なのか、という問いにあらゆる角度、分野から答えている。

著名に添えられている「なぜカナリヤは歌を忘れたか」は、大正時代日本で最初に歌われた童謡「カナリヤ」である。残酷とも言える悲しい歌をなぜ子どもたちに歌わせなければならなかったのか。「十五夜お月さん」「雨」「七つの子」「赤い靴」「青い眼のお人形」と悲しい童謡が紹介される。私たちはなぜ悲しいものに日本を想うのか。

本著では他に「多様で一途」「職人とネットワーカー」「仕組みと趣向」「江戸の見立て」「日本に祭るおもかげとうつろい」「日本と遊ぶ」「間と型」など、「ああそういうところに日本ってあるよね」という指摘が膨大な事例をもとに説明される。

松岡正剛の全時代、グローバルな文化、あらゆる領域を持って「危うい日本的なもの」を改めて考えてみると、「日本画は何を描くべきなのか」「日本における洋画とは何なのか」「おきものと彫刻はどう違うのか」「新しきデザインと古き民藝の価値の見方はどう異なるのか」・・・アートにおける様々な問題が提示されてくる。

80歳になったらもう一度読んでみたい本である。