09. 6月 2020 · June 9, 2020* Art Book for Stay Home / no.14 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 日記

『両性具有の美』白洲正子(新潮社、1997年)

「両性具有の美」の書名で阿修羅像の表紙、著者が白洲正子。これはもう美の究極を紐解く一冊であることが確信できる。

両性具有とは、男女両性を兼ね備えた存在。転じて男女を越えた性の、あるいは性を持たない存在、男女中間の存在と曖昧多様な解釈がある。

芸術が想像、妄想、思想、理想という現実を超えた存在であるとするならば、男性でも女性でもない存在は、芸術と深く強く関わる存在である。

ギリシャ神話では、ニンフのサルマキスに恋されて強制的に一心同体にされたヘルマプロディートス、後に豊かな乳房を持った少年、あるいは男根を持った女性などの形で芸術表現のモチーフとなっている。

また日本神話の天照大御神は中世の書物「日諱貴本紀」で両性具有神として描かれている。

神話の世界でお墨付きの両性具有は、小説、映画、マンガ、アニメーションにおいて現代でも多く使われるテーマである。突然男女が入れ替わる、男性が女性に、女性が男性になるという設定は、まずありえないがゆえに想像を掻き立てる。女装、男装などは歌舞伎、歌劇において大前提であり、女装家、男装家なる職業とも言いがたい自己アピールがメディアを賑わす昨今である。

本著は、日本書紀から公家、武家社会、仏教、絵巻、能、南方熊楠にいたる両性具有の怪しき魅力を白洲正子という眼力で紐解いている。

06. 6月 2020 · June 6, 2020* Art Book for Stay Home / no.13 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 日記, 未分類

『入門!美術コレクション』室伏哲郎(宝島社新書、1999年)

多くの人は、美術は鑑賞するものであるという認識である。
義務教育の中でそのように教わってきたし、そもそも美術館というのは鑑賞を目的として造られているのではないか。
その通りであるが、美術が売買されるものであることも多くの人の知るところである。その場合、美術と呼ばず、美術品と呼ぶ。価格が付けられて流通するものは品物である。かくいう美術館の多くの所蔵作品も購入によって成り立っている。購入以外は寄贈作品であるが、その場合も想定価格が記録される事になっている。

一方で、美術作家という職業はどのようにして成り立っているのであろうか。
多くは美術の専門教育を受けるために芸術大学・美術大学に行く、行くためには専門の予備校に通う。現役合格は難しく、大学によっては何年も浪人することも珍しくはない。芸術大学・美術大学の月謝、教材費は医学部に次いで高額である。近年は大学院を修了、あるいは海外留学も一般化しつつある。
そしてプロになってもすぐに作品が売れるということはめったになく、作家を続けて行くためには生活費を含めてさらなる活動費用がかかる。親や親戚の支援なくしては不可能である。本来支えられなければならないのは、作品が売れるという支援である。

美術コレクションがあって、美術作家は育てられるのである。
かつては教会、寺院、貴族、武家、富豪というパトロンであったが、それに変わるのが現在では美術コレクターである。美術コレクターは経済的に裕福な人がなる、と考えられがちであるがそうではない。経済的に裕福な人であっても美術に関心のない人は一点の作品もコレクションすることはない。
では誰が美術コレクションをするのか、美術を愛好する者である。美術を愛好する者がそれぞれの経済力に合わせた形で美術作家を支援する。

美術作品は高額であると考えている人が多い、そういう作品もあるが、実際は数千円のものから魅力的なものはある。大きな作品より小さな作品は安い、ミニチュア作品と呼ばれるものは1万円以下でも優れた作品がある。版画は複数制作されるので一点は安い。美術館のショップでは、アートグッズと呼ばれる美術品の複製(ポストカードなど)は100円から販売されている。

美術コレクションというのは、美術作品を手元において楽しむことである。それは誰もが可能なことで、洋服を買う、外食をする、アクセサリーを買う、コンサートに行く、海外旅行をするということと変わりはない。美術という市場を知ることである。

本書『入門!美術コレクション』はそういう美術市場を教えてくれる、そして観る、選ぶ、買う、売る、創るという美術コレクションにおける多様な楽しみを紹介している。

04. 6月 2020 · June 4, 2020* Art Book for Stay Home / no.12 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 日記

『メディア社会の中の写真を考える メディア写真論』佐野 寛(パロル舎、2005年)

「芸術における写真とは何か」は、多くの人の問いかけである。それは近年発明された表現技術であるからである。
「芸術における絵画とは何か」「芸術における彫刻とは何か」とはかなり異なる問いである。
絵画や彫刻は芸術であることを前提としているのに対して、写真は芸術としての前提が危ういのである。絵画(版画を含む)や彫刻を通して芸術とは何かが何百年もかかって定義づけられて来た。
そしてそれが結論付けられた頃に写真が登場した、19世紀のはじめである。芸術の役割の中にあった「記録する」ということが、圧倒的な技術力の違いでその役割を除外せざるを得ないこととなったのである。しかしそのおかげで「芸術とは何か」が記録すること以外において明確化されたと言える。そして印象派が誕生した。以降の芸術は、写実、具象を表現手段の一つとして位置づけるに至っている。

写真家の団体で開催されたシンポジウムに招かれて、「写真は芸術でしょうか」という質問を受けた。私は「もちろん芸術です」と答えた、質問者を含む会場からは共感のざわめきが起こった。私は付け加えるように「それは、絵画は芸術でしょうかという質問と同じです」「写真は芸術ですが、絵画がすべて芸術ではないように写真もすべてが芸術というわけではありません」としたが、真意は伝わらなかったかも知れない。

本著『・・・メディア写真論』は、写真はメディアとしてどのような役割を担っているのかを424ページに渡って論じている。
そこには写真がメディアとして大きな力を有していること、報道メディアとして大きな力を発揮し続けてきた写真、広告メディアとして広告を大きく発展させてきたことを、すべて実例を上げて丁寧に述べている。したがって強い説得力のある論文となっている。論文であるが大変興味深いノンフィクションでもある。

ブログからユーチューブ、SNSの双方向メディアの爆発によって、メディアが公的なものから私的なものに拡大されつつある今、写真が持つメディア力は計り知れないものとして我々は実感している。
「芸術における写真とはなにか」を含めて、改めて「写真とは何か」を考えるに優れた一冊である。

著者佐野寛は、アートディレクターとして広告制作会社を経営し、一方で東京学芸大学教授、目白大学人間社会学部メディア表現学科特任教授として、教育・研究の第一線で活躍して来ている。デザイン、広告、メディア理論と実践の先輩として尊敬の人、何度か酒を共にお話をさせていただく機会を得たが、論を酒席で楽しむことができる方である。論と酒はこうありたい。

02. 6月 2020 · June 2, 2020* Art Book for Stay Home / no.11 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 日記

『美術館で愛を語る』岩渕潤子(PHP新書、2004年)

なんてチャーミングな書名なのだ。公園で愛を語る、遊園地で愛を語る、劇場で愛を語る、図書館で愛を語る、と並べて美術館で愛を語る。
それがすんなりと感じられないから『美術館で愛を語る』が書名としてイキイキしてくる。

私たち美術館関係者は、『美術館で愛を語る』ことはなんと素晴らしいことかと考えている。
しかし、美術館で愛を語っている人は極めて少ない。いやもちろん聞き耳を立てている訳ではない。年齢を問わずカップルでの来場が少ないからである。高校生のカップルが来場されると「あ、きっと美術部の仲間だ、愛が育まれるといいなぁ」とつまらない想像をしてしまう。

多くの来場者は「絵は絶対美しいもの」との幻想に囚われ、その感動を強要されているかのようである。そこには絵の感動の感想を語り合う場所と設定されているかのようである。
絵はもっと多様であり、美しいというのも一つの評価でしかない。

少し広い空間であればソファが用意されている、ロビーにはベンチやカフェ、レストランもある(すみません、本館は残念ながら不十分です)、レストランにはビールや軽いアルコールも用意されている。
展覧会によっては、愛がテーマの作品もあり、抱擁やキスシーンもある。愛を語るには十分な装置であるはずである。大声を出すことはタブーであるが、愛をささやくことに何ら問題はない。

欧米の多くの美術館、研究所で研究し、世界の美術館を観て来た著者が、あらゆる角度から美術館のロマンを問い、答える。
美術館をどういうものだと考えるべきか、美術館でどのように作品を鑑賞すべきか、多くの美術館を具体的に取り上げながら、その楽しみ方を伝授してくれる。
それはつまり『美術館で愛を語る』ためなのだ。

31. 5月 2020 · May 31, 2020* Art Book for Stay Home / no.10 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 日記, 未分類

『鳥取が好きだ 水丸の鳥取民芸案内』安西水丸(河出書房新社、2018年)

2014年3月、突然水丸さんが脳出血で亡くなられた。
著者安西水丸は、会えば「水丸さん」と呼んで酒をご一緒する友人関係であったので、ここでも水丸さんと呼ばせていただく。

清須市はるひ美術館においては、2017年7月〜10月「特別展 イラストレーター安西水丸 ―漂う水平線―」を開催している。
トップイラストレーターとしては多くの人の知るところであるが、漫画家、小説家、エッセイスト、絵本作家、映画評論家としても輝く業績を残している。

2018年の秋、出版社から水丸さんの著書が送られてきた。著者進呈である。水丸さんが亡くなられて4年以上が過ぎている。
しかし間違いなく『鳥取が好きだ・・・』は水丸さんの著書であり、水丸さんの洒脱な文で綴られている。随所にこの著書のために描かれたイラストレーションも掲載され、書名、コーナータイトルも水丸さんの筆跡である。
おそらく亡くなる前に殆ど著作作業を終えており、出版寸前であったのだろう。最後のOKを出す前に亡くなられたと考えるのが順当なところであるが、水丸さんは「ちょっと待ってね、思わず死んじゃったけれど、少し手直ししたいんだ」と言って天国から戻って来たに違いない。でさっさと手直しするかと思うと「ごめん、約束があって」と言って仲間が待つバーに出かけちゃって、4年が過ぎちゃった。酒が大好きで、友と飲む酒が大好きで、お話が大好きな水丸さんは、いつも夜の酒場に消えて行ったそうだ。

やっと出版OKが出てからも、「あの人にこの人に本贈っておいてね」と手配に何日もかかって、そっと天国に帰って行った。

さて、『鳥取が好きだ・・・』である。サブタイトルにあるように「鳥取民芸案内」が全てである。
「えっ」と戸惑われる方も多いと思われるが、鳥取は民芸の宝庫。でも多くの人の知るところではない。そこが民芸の面白さであり、水丸さんらしいところだ。水丸さんは一流ブランドたるものが好きではなかった。質は問うが名は問わない。名は観る眼を拐かす。

前文に「・・・鳥取は日本でも有数の民芸運動が盛んな土地だ。そんな民芸運動を語るに欠かすことの出来ない人物が民芸の名プロデューサーといわれた吉田璋也だろう・・・」吉田璋也を知らない人には知って欲しい、知る人にはもっと知って欲しい、そんな水丸さんの声が聞こえる。

2019年の夏、私は『鳥取が好きだ・・・』を抱えて鳥取民芸の旅に出かけた。
水丸さんに会えるような気がして。

30. 5月 2020 · May 30, 2020* 名古屋芸術大学オンライン授業に参加。 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 未分類

一昨日の5月28日、名古屋芸大のオンライン授業に、清須市立図書館山本館長と一緒に参加。
講義名は「デザインワークショップ」受講生はデザイン領域(イラストレーション、グラフィック、プロダクト、建築など複数のコースが含まれています)の学生、担当教官は駒井貞治教授、米山和子教授。

以下の質問内容を事前に頂いていたので、オンライン授業は山本館長とセッションを行うように快調に進められた。

・館長のそれぞれの道に進まれたきっかけ
・館長になられた経緯
・利用者としては勿論ですが、館長としてのこれからの展望
・ワークショップに求めるもの
・コロナ以降の図書館、美術館に求められていると思われるもの
・学生時代にやっておくと良い事、若者へのアドバイス

30. 5月 2020 · May 29, 2020* Art Book for Stay Home / no.9 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 日記

『ゲルニカ ピカソが描いた不安と予感』宮下誠(光文社新書、2008年)

中学校の教科書に必ず掲載されていると言って良いピカソの《ゲルニカ》、つまりピカソの代表作。
30〜40年前までは、ピカソの代表作といえば《アビニヨンの娘たち》《泣く女》であった。つまり代表作が変わったということである。
ピカソといえば、いろいろな角度から見た物の形を一つの画面に収めて見せるというキュビスム。
《アビニヨンの娘たち》《泣く女》はそのキュビスムが強く出ている代表作品である。《ゲルニカ》もまたキュビスムを屈しして描かれた作品である。

評価は何によって分かれるのだろうか。
《アビニヨンの娘たち》《泣く女》はキュビスムの追求のためにキュビスムが効果的に表現された作品である。
一方《ゲルニカ》は、ピカソの激しい怒りのもとにキュビスムが表現手段として描かれたものである。
つまりキュビスムの位置づけが異なるのである。キュビスムが造形表現としていかに優れていようとも、その表現が芸術制作のためになければ評価はこれほど高いものにはならなかっただろう。

少し難しくなったが、ピカソの絶対的代表作《ゲルニカ》が何故、どのような制作過程で制作されたのか。
《ゲルニカ》は、スペイン内戦中にドイツ空軍のコンドル軍団によってバスク地方の町ゲルニカが受けた都市無差別爆撃を主題としている。ピカソの不条理に対する怒り、哀しさによって内戦中の1937年に描かれた。

また《ゲルニカ》の美術史における意味もまた語られている。
芸術とは何か《ゲルニカ》を通して学ぶことは多い。

25年前、私は《ゲルニカ》を観たくてスペイン・マドリッドを訪れた。《ゲルニカ》はかつてアメリカ・ニューヨークにあったが、スペインに返還されて、プラド美術館に収蔵された。1992年、マドリード市内に国立ソフィア王妃芸術センターが開館されると同時に移され展示された。

プラド美術館で多くの名作を鑑賞して、その興奮も醒めやらぬまま国立ソフィア王妃芸術センターの《ゲルニカ》に対面した。
これまで何度も画集で観ていた《ゲルニカ》は私の中で勝手に小さく作品化されていたが、実物(349.3✕776.6cm)は遥かに大きく圧倒的な存在感で迎えてくれた。立ちすくむ私の目から涙が止まらなかった。それは恐怖で悲鳴をあげているゲルニカの村の人々に思いを重ねるものであり、ピカソによる絵画の表現というものがここまで凄いものなのかという感動の両方であったと思う。

本書『ゲルニカ ピカソが描いた不安と予感』は、その1点を徹底的に解明、論及している。
ピカソファンには欠かせない1冊であるが、「芸術とは何か」を考える重要な一冊と言える。

27. 5月 2020 · May 27, 2020* Art Book for Stay Home / no.8 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 日記

『ミッフィーからの贈りもの ブルーナさんがはじめて語る人生と作品のひみつ』ディック・ブルーナ(講談社文庫、2015年)

ミッフィーからの贈りもの、それは欲しい、ぜったい欲しい。と多くのミッフィーファンは思うだろう。

そして私もその一人である。

そんなミッフィー大好きな人たちに是非読んでほしい本である。

一言で言えば「ブルーナおじさんてこんな人」がわかる本である。

 

ディック・ブルーナは1927年、オランダのユトレヒトに生まれた。

アーティストを目指し、24歳からはグラフィックデザイナーとして活躍、1955年から絵本を描き始める。

オランダではミッフィーではなく「ナインチェ」という。

1964年、福音館書店が『ちいさなうさこちゃんというタイトルで出版し、日本デビュー。いつまでも「うさこちゃん」というオールドファンも多い。

 

私がオランダ・アムステルダムに旅をしたときに、ミッフィーのグッズや版画が欲しくて郊外にあるナインチェ・ハウスにバスに乗って訪れた。

当時50歳を過ぎていたが、子供のように胸がときめいたことを忘れられない。

ナインチェ・ハウスは2階建ての小さなお店で、そこにミッフィーが住んでいるような気がした。

店にはたくさんのミッフィーグッズで溢れており、数万円も大人買いしてしまった。

 

さて本書は、質問に対してブルーナおじさんがやさしく答えてくれる形で進められている。

質問は77あって、「ミッフィーたちの絵本は、自宅で描いているのですか?」「ブルーナさんには、子どもはいますか?」「子どものころに、うさぎと遊んだことはあるの?」「ミッフィーは、どうやって生まれたの?」「目は点、口はバッテンなのに、ミッフィーの気持ちが伝わってくるのはなぜ?」「ミッフィーたちは、なぜいつも正面を向いているの?」というような子どもたちが知りたいこと、大人も知りたいこと、プロの私たちも知りたい質問がいっぱいで、どの質問にもわかりやすく、やさしく答えている。

清須市はるひ美術館では、2015年7月4日から9月30日まで、特別展「ミッフィーのたのしいお花畑」を開催。ディック・ブルーナさんはまだまだお元気だったが、2017年2月に89歳で亡くなられた。

たくさんのミッフィーファンに「さよなら」って笑顔を見せながら。

23. 5月 2020 · May 23, 2020* Art Book for Stay Home / no.7 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 日記

造形集団 海洋堂の発想』宮脇修一(光文社新書、2002年)

海洋堂をご存知ですか。
株式会社海洋堂は、鉄道、ミリタリー、フィギュア、食玩等の各種模型を制作する会社である。
そしてフィギュアの造形企画制作では圧倒的に優れた技術力で評判を得ている。

フィギュアとは何か、図形や図案、製図すること、転じて図面から型起こしした立体物のこと、そこから派生した意味である人形や造形物。アート領域においては、サブカルチャーの一表現として位置づけられる。

2008年に競売会社サザビーズがニューヨークで行ったオークションにて、現代美術家の村上隆の制作したフィギュア《マイ・ロンサム・カウボーイ(My Lonesome Cow Boy)》が、1516万ドル(約16億円)で落札された。16億はゴッホやピカソと並ぶ価格である。芸術評価と売買価格は異なるものであるが、大きな指標ではある。

《マイ・ロンサム・カウボーイ》は高さ254cmの人形である。
では「人形と人物彫刻とはどう違うのか」、それは「マンガの一コマと絵画とはどう違うのか」に答えるように簡単なようで難しい。
平面、立体であるとか、石でできているのかプラスチックでできているのか、一点ものか量産品であるかといった造形手段でアートの価値を決めることがあるが、それは私たちの鑑賞を惑わせる。

アートの基本的対象は、人間によって制作されたあらゆる造形物である。どんなに美しい風景、美しい花も芸術では決してない。
言い換えれば、人間によって制作されたあらゆる造形物はすべてアートとしての魅力を有する可能性を持っている。
それが現代美術の基本的な考え方である。

さてここまではフィギュアのアートにおける位置づけについて述べたが、本書はそういうフィギュアの魅力を生み出した海洋堂の凄い技術、ビジョンについて紹介されている。模型、食玩の会社が子どもたちを夢中にし、やがて大人になってもその魅力に飽きさせることはない。
その要因はどこにあるのか、本書は40人の造形集団の正体を見せてくれる。

  

19. 5月 2020 · May 19, 2020* Art Book for Stay Home / no.6 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 日記

『とりあえず、絵本について』五味太郎(リブロポート、1981年)

タイトルに「絵本」が付いて、著者が五味太郎。

これはもう楽しい絵本、あるいはそのような本に違いないと思ってしまう。ところが本文236ページのうち絵は17ページ、絵についてはちょっと期待はずれかも知れない。

日本におけるプロの絵本作家は200人ほどで、そのなかから画家やイラストレーターなど除いて主に絵本だけで生活が成り立っている人は10人といないと言われる。

これまで450冊の絵本を出版している五味太郎は日本を代表する絵本作家である。もちろん販売数も極めて多い。

我が家の100冊ほどの絵本蔵書の中にも、五味太郎作は10冊ほどあって、なかでも『みんなうんち』(福音館書店)は二男の愛読書だった。

『とりあえず、絵本について』は、絵本について殆ど書かれてない。

では何が書かれているのかと言うと、五味太郎の脳内風景である。妄想、想像、思想、感想である。
「あっ、五味太郎さんはこんなことを考えているんだ」という本である。相当にユニークである。

絵本は素晴らしい世界、子どもたちが夢中になって何度も何度も繰り返し読む、読んでくれとねだる。

自分もそういう子どもであった記憶のまま大人になって、自分も絵本を作りたいと思う、絵本作家になりたいと思う。美術大学やデザイン専門学校を卒業して、絵本作家を目指す。

しかし絵本作家になれるのは極めて稀である。狭き門である。絵本が売れなければ絵本作家ではない。小説が売れなければ小説家ではない。曲が売れなければ作曲家ではない。

絵本作家になるために、絵本や絵を一生懸命学んでも魅力的な絵本作家になることは難しい。
絵のための絵、絵本のための絵本はつまらないのだ。作者の魅力が絵になり、絵本になる。

五味太郎の絵本がおもしろいのは、五味太郎がおもしろい、考えていることがおもしろいからだ。
作家になっても良かったのだろうけれど、文章を書いているよりも、絵を描いているほうが圧倒的に好きだったのだろう。

そんなことがわかる『とりあえず、絵本について』。