28. 6月 2017 · June 28, 2017* 昔はピンクなんて言わずに「ももいろ」と呼んでいた。 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 未分類

クレパスは「ももいろ」だった。なぜ「ももいろ」は使われなくなったんだろう。英語が氾濫したということもある。しかし、青い、赤い、黒い、白いなど形容詞になる基本の色は、英語化の頻度は低い。多くの色の中で、「ももいろ」の発音は重くて籠る。「ピンク」は弾ける発音で、耳障りが良い。かわいい色のNo.1とピンクの発音のかわいさが、ピッタリきている。

一方で、桃色は桃の花の色(桜色も桜の花の色)というように、具体的な色を表している。ピンクは赤と白の間の幅広い色として呼ぶことができるので、とても使い勝手が良い。幅広いピンクのイメージを限定するためには、コーラル(珊瑚)ピンク、サーモン(鮭)ピンク、チェリー(桜)ピンク、そのほかベビーピンク、ショッキングピンク、ダスティ(濁った)ピンクがある。

残念ながら、日本色名に幅広いピンクに該当するものがない。

(絵:サノエミコ)

 

 

21. 6月 2017 · June 21, 2017* 人は言葉で深く考える、考える力は品格と生きる力を生む。 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 未分類

6月18日(日)中部ペンクラブ主催による辻原登公開文学講演会が開かれ、聴講した。幅広い博学の中から「文学とは何か」「文学の責任とは何か」を語られた。講演を聴いて考えたこと。

最近の国会を見ていると、言葉の使われ方が異常に乱れている。質問と答弁が呼応していないばかりではなく、文脈が成り立っていない、言葉の使い方が間違っている、更には読めない。国会発言で読めないというのは、発言内容が自作ではないということの暴露で、そういうところからも品格の無さが露呈する。

長く美術教育の職にあったが、学生たちが絵のタイトルを「無題」ときどることが増えてきた。理由を問えば「私の想いは言葉にできるものではないから絵を描いている。題に惑わされて絵を見てほしくない」という。一見もっともらしい。しかし、そういう学生の多くは何を描きたいか追求することが甘く、題を考えることを面倒くさいと思っている。そこに都合の良い言い訳がある。

世の中の多くの人が深く考えることを避けるようになったと思う。考えるとは数式を解くときに考えるということを指すのではなく、人生のこと、社会のことについて考えることである。人間関係で悩み、苦しみ、憤る、不条理に怒り、心の悼みに寄り添う。

考えることは、人としてあるべき姿を自らに求めるものであり、そこから品格は生まれる。「無題」と題された絵は、考えませんでしたという絵があって、考えていない絵はつまらない。一方で熟考の末にある「無題」は、恐ろしい。

多くの絵は題と共に合って、一体化したものである。

ムンクの「叫び」は叫ばなくてはならない観る者への呼び醒ましがある。あの絵が「無題」であったら、こんなに多くの人の共感を得ただろうか。

 

16. 6月 2017 · June 16, 2017* 負のデザインが、デザインに活力を与える。 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 未分類

6月15日午後、愛知県立芸術大学で特別講義、テーマは「負のデザイン」。

デザインの殆どは正のデザイン、それはデザインが社会とともにあるからである。社会的であるとは「清く、正しく、明るく、美しく、楽しく・・・」が求められる大量に生まれるデザインにおいてはあくまで社会に了解を得なければならない。

そんなデザインはどこか虚偽性を孕んでいて、表層的でもある。なんだか嘘くさい。

「負のデザイン」は危ういが生きることの本音を捕まえていて、多くのデザインに活力を与えて来た。

 

15. 6月 2017 · June 15, 2017* 表現技術は時として感動を生むが、創作の目的ではない。 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 未分類

毎月、文芸誌の表紙を木版画で制作している。版制作、刷り技術は上達するし、上手くなりたいと言う職人意識も常にある。15年前に木版画を始めたが、その頃の作品は今より技術は下手である。しかし、作品が良くないかというとそうではない。むしろ、木版画を始めたばかりの楽しさが版画に感じられてなかなか良い。

表現技術は、観る人を感動させることがあるが、感動させるために表現技術が磨かれるべきではない。
創作者は表現技術の上達に酔ってしまうことがある。誰もが判りやすく、「上手い!」と賞賛してくれる。これが危険。
岡本太郎は「絵は上手くっちゃいけない、下手な方がいい」と言っていますが、これの意味するところが表現技術賞賛の否定。写真が発明されコンピュータ時代にあって、表現技術賞賛は意味がない、そこに目を奪われてはいけない。
では本当に下手な方が良いのかというとそういう意味ではない。
一番大切なことは、創作者の想い。伝えたい想いのない上手い絵というのはつまらないということである。
創作者の想いを実現するために、表現技術が必要で、そのために磨かれる。それは必ずしもデッサン力があるとか超絶技巧という意味ではない。
デッサンは表現技術の骨をなすもの、ですがデッサン至上主義は主客転倒である。
想いと技術が一つになった時、美術が生まれる。

 

14. 6月 2017 · June 13, 2017* 「はらぺこあおむし」のエリック・カール。 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 未分類

今週土曜日、17日の館長アートトークはエリック・カールについて。先月のアートトーク終了後「来月はエリック・カールです」と申したら聴講者のみなさんがきょとん「エリック・カールって知らんな」という反応だった。すかさず『「はらぺこあおむし」の作者』と言ったら「お〜」と凄い多くの反応。

これが絵本の世界かも知れない。

ディック・ブルーナよりも「うさ子ちゃん」「ミッフィー」の方が圧倒的に知られている。だからエリック・カールの「はらぺこあおむし」ではなくて、「はらぺこあおむし」のエリック・カール。

アートに置ける作者名と作品名については、いろいろ考える問題かと思うが、こと絵本に関しては絵本名が著者名よりも知名度が高いと言うのは素敵なことだ。

誰が作ったかよりも、この絵本が好き。これは子どもに限定せずに大人だって同じことが言えそうだ。その上で、「エリック・カールってどんな人だろう。どんな人があんな素敵な絵本を作ったのだろう」と考えることが、理解を深く楽しくする。

10. 6月 2017 · June 10,2017* 愛知県博物館協会 平成29年度総会開催される。  はコメントを受け付けていません。 · Categories: 未分類

6月8日(木) 名古屋市博物館において、愛知県博物館協会 平成29年度総会が86名の参加者によって開催された。

愛知県博物館協会は、1962年に開催された神奈川県博物館協会と財団法人日本モンキーセンターとの交換研究会を経て、1964年、愛知地区博物館連絡協議会として、加盟館11館で発足。

発足以来、各種講演会・研修会の開催や協会報『愛知の博物館』の発行。現在、加盟館は118館を数え、展覧会情報誌『おでかけガイド』の発行などを通じて、加盟館の情報発信の場を提供している。また、加盟館員による各種研究会の発足など、より各個の問題意識を深める場としての役割も生まれ、愛知県内の博物館施設に所属する学芸員の研究・交流活動を支える場として活動を続けている。

総会にて、学校法人梅村学園中京大学古文書室(名古屋市昭和区)とあいち航空ミュージアム(西春日井郡豊山町県営名古屋空港内、今年度11月30日開館予定)が新規加盟館として承認された。

http://www.aichi-museum.jp/
総会後の記念講演会
「復興キューレション ー文化財レスキュー期における文化創造活動ー」
講師:加藤幸治東北学院大学教授

被災した多くの文化財を先ずレスキューは、博物館の最重要責務である。しかしズタズタなデータ再生には、大変な困難の中にある。
東北学院大学学生達との被災地でのワークショップが、再生を超えて文化財のあり方、魅力を見出しつつある。ワークショップの力を強く知る講演会であった。

08. 6月 2017 · June 8, 2017* 第66回全国美術館会議総会開催される。 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 未分類

さる5月25日、神奈川県の 鎌倉プリンスホテルにて、第66回全国美術館会議総会が開催された。

380美術館会員のうち179館、322名の出席で開催された。美術館単位ですので、美術館館長、学芸員、事務職員という構成。

4月に山本幸三地方創生大臣の「学芸員は癌」発言がありました、その軽薄さ対するに怒りは多くの出席者に共有されているものの、しかしそのようなものに惑わされることはなく、「美術館とは何か」自らの責務を論議するものであった。

全国美術館会議については、https://www.zenbi.jp/data_list.php?g=4&d=1

18. 2月 2017 · February 18, 2017* ディック・ブルーナさんが亡くなりました。 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 未分類

一昨年の夏、清須市はるひ美術館で「ミッフィーの楽しいお花畑/ディック・ブルーナが描くお花と絵本の世界展」を開催することができ、アートトークでもディック・ブルーナを取り上げました。キャラクターの展覧会ではなく、アーティスト ディック・ブルーナ展であったこと、もちろん彼の魅力の最大はミッフィーを生み、育てたことにありますが。
そして、ブルーナの線は世界のアーティストの注目を集めました。

子どもたちに寄り添い、いっしょに涙を流すミッフィー。
あなたの描いたたくさんの絵とミッフィーは、世界中の子どもたち、子どもを大切に思う人々に愛を届け続けてくれるでしょう。

ブルーナさんさようなら。

 

09. 1月 2017 · January 9, 2017* 「ゴッホとゴーギャン展」最高の2人展。 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 未分類

「ゴッホとゴーギャン展」が愛知県美術館で始まった。予想を超える人気で連日観覧客が押し寄せている。印象派のビッグ2、ゴッホ展でもゴーギャン展でも人気があるのに、この二人の展覧会である。

ところで、展覧会は基本個展が一番おもしろい。最もその作家の世界観が濃く深く観ることができるからである。人数が増えていけばいくほどおもしろくなるかというと、決して足し算にもかけ算にもならず、薄まっていく。印象派展とゴッホ展、どちらが興味深いかということである。

それで2人展の場合はどうか。その二人が創作の上で必然的な関係性があるかどうかである。子弟、夫婦、親子、友人にはその創作上の関係性を見いだすことができるだろう。しかし一方が圧倒的優れた作家で、他方がそれに頼るような2人展ではやはりつまらない。互いに高いレベルで自立していなければならない。

さて、ゴッホとゴーギャンである。印象派の画家たちは互いに交流があって友人関係にあることが多い。中でもこの二人は創作の上で互いに尊敬をしあっており友愛も強かった。故にアルルの街で共同生活が実現した。そこにひまわりの絵がある。ゴーギャンが好きだと言ったひまわりをたくさん描き飾って、ゴーギャンのための椅子を買って、友人ゴーギャンを迎える。繊細な二人はたった2ヶ月で共同生活を破綻させる。しかし互いの絵にたいする尊敬が失われた訳ではない。ゴッホの自殺によって友愛は終りを告げるが、その後ゴーギャンは、あのゴーギャンの椅子にひまわりの花を飾った絵を描く。まるで愛しいゴッホをゴーギャンが抱きしめるように。

ゴッホとゴーギャンは、互いに創作の上で強い結びつきがあって、友愛がある。だから「ゴッホとゴーギャン展」はおもしろい。

3月20日まで。

http://www-art.aac.pref.aichi.jp/exhibition/index.html

26. 12月 2016 · December 27, 2016*あいちトリエンナーレ2016が終わって2ヶ月 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 未分類

トリエンナーレとは、そもそも何か。トリエンナーレ(3年に一度)、ビエンナーレ(2年に一度)開催される現代美術の国際展。1895年からイタリアのヴェネツィアで開催され続けて、世界的な評価に至っている。ヴェネツィアの成功にならって、世界で200を超えるトリエンナーレ、ビエンナーレが開催されている。国内でもこの数年、小さなものを含めて50ほどあり、殆どが始まったばかりである。なおヴェネツィアビエンナーレは、美術の他に映画、建築、音楽、演劇、舞踊部門がある。

その目的は、国際交流や地域活性化、観光客の集客であり、その地域の人々が多様な国の多様な芸術に触れることを目的としている。目的に適うためには、地域の芸術・文化に刺激を与えるということが求められる。地域の芸術・文化を地域の人に紹介するということは、日常に行われていることである。3年に一度、他地域から優れたものを持ち込むことが、地域の芸術・文化に携わる者にも大きな刺激となる。どんなに優れた芸術・文化であっても、同じことが繰り返されれば澱み、停滞することになる。

さて、3回目を迎えた「あいちトリエンナーレ2016」を、そうしたトリエンナーレの本来の目的に照らし合わせて考えてみる。「トリエンナーレを開催する意味がない」という意見がある。それに対しては、開催されなかったこの7年を想像して比べてみれば判る。東京は別格として、極めて芸術・文化の集積が高い愛知県である。トリエンナーレが開催されなくとも、毎年恒例の芸術・文化催事は確実に開かれていたであろう。しかし、それらの刺激的進化は難しい状況にある。慢性的経済不況、それにともなう愛知県、名古屋市の文化予算削減という側面的な要因もあるだろう。

他県に比べて極めて多い芸術系大学の学生達が、情熱を持って向かう活躍の場が用意できなくなっている。トリエンナーレが開催されていなかったら、この地域における美術の現状はさらに大きな停滞を生み出していたことになるだろう。

一方で、あいちトリエンナーレがそうした状況に充分刺激的であったかという問いには、充分ではなかったと言えるだろう。愛知芸術文化センター、名古屋市美術館を核としたことは、交通の便、予算削減、運営機能の効率という点で利点が大きい。しかし、そこには公序良俗に反しないという強い規制が求められ、創作、発表に影響が出ているのではないか。長者町や栄、豊橋、岡崎の空きビルには刺激的で魅力の溢れる作品がいくつもあったが、トリエンナーレ全体を強くアピールするには至っていない。核となる二施設に圧倒的魅力に溢れる作品がなかったことは残念である。

あいちトリエンナーレのもう一つの柱、パフォーミングアートは、日本における他のトリエンナーレや芸術祭に比べてユニークであり、実験的なものも多く、パフォーミングアーツ分野に留まらず、伝統芸能や美術の領域にも刺激的であったと思われる。

「あいちトリエンナーレは、やるべきではない」といった議論の噴出も含めて保守的なこの地域に意義深いことだと思う。

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大巻伸嗣(豊橋会場)

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カンパニー・ディディエ・テロン(名古屋市美術館サンクスガーデン)