6月18日(日)中部ペンクラブ主催による辻原登公開文学講演会が開かれ、聴講した。幅広い博学の中から「文学とは何か」「文学の責任とは何か」を語られた。講演を聴いて考えたこと。
最近の国会を見ていると、言葉の使われ方が異常に乱れている。質問と答弁が呼応していないばかりではなく、文脈が成り立っていない、言葉の使い方が間違っている、更には読めない。国会発言で読めないというのは、発言内容が自作ではないということの暴露で、そういうところからも品格の無さが露呈する。
長く美術教育の職にあったが、学生たちが絵のタイトルを「無題」ときどることが増えてきた。理由を問えば「私の想いは言葉にできるものではないから絵を描いている。題に惑わされて絵を見てほしくない」という。一見もっともらしい。しかし、そういう学生の多くは何を描きたいか追求することが甘く、題を考えることを面倒くさいと思っている。そこに都合の良い言い訳がある。
世の中の多くの人が深く考えることを避けるようになったと思う。考えるとは数式を解くときに考えるということを指すのではなく、人生のこと、社会のことについて考えることである。人間関係で悩み、苦しみ、憤る、不条理に怒り、心の悼みに寄り添う。
考えることは、人としてあるべき姿を自らに求めるものであり、そこから品格は生まれる。「無題」と題された絵は、考えませんでしたという絵があって、考えていない絵はつまらない。一方で熟考の末にある「無題」は、恐ろしい。
多くの絵は題と共に合って、一体化したものである。
ムンクの「叫び」は叫ばなくてはならない観る者への呼び醒ましがある。あの絵が「無題」であったら、こんなに多くの人の共感を得ただろうか。