08. 8月 2020 · August 8, 2020* Art Book for Stay Home / no.28 はコメントを受け付けていません · Categories: 日記

『ルナティックス 月を遊学する』松岡正剛(作品社、1995年)

著者松岡正剛は、編集者であり著述家であるが、出版社に在籍の編集者でもなければ出版社を退社してフリーの編集者というわけでもない。正しくは自身が経営する編集工学研究所における編集工学者である。

松岡正剛の言う編集工学とは、人間の思考や社会のコミュニケーション・システムや創造性にかかわる総合的な方法論のことである。

現代においては、様々なモノ、コト、情報が膨大にチョイスすることが可能であるが、求めようとしている目的に可能な情報整理、組立ができない。

情報の洪水に溺れないようにするためには、取捨、構築、つまり編集が必要であると説いている。

 

さて本著『ルナティックス 月を遊学する』は、大変ロマンチックな著名である。

その上、帯には「月がぼくにつきまとう。なにかよい薬はないものか。」。

いやはや大変な病である。

この病は恋の病に似ていて、もちろん治療薬もなければ専門医にかかることもできない。この嘆きは他人から見ればのろけに近い。恋とは言わないまでも、骨董やグルメ、コレクション、ギャンブル、果てはヨットや山登りなど夢中になっている人は珍しくはないだろう。しかし「月」である。この月をどのように編集するのか、松岡正剛のお手並みが見事である。

 

では、どこがアートブックなのか。

美術史、美術評論、美術作家論、真正面から切り込んでなるほどというアートブックはこれまでも、これからも紹介し続けるだろう。

本著では月がテーマである。この月を解剖、再構成するために、天文学はもちろん、歌謡曲、ロック、オペラ、西洋絵画、日本画、浮世絵、書、写真、詩、童謡、哲学、心理学、マンガ、アニメーション、花鳥風月の日本文学、月着陸宇宙開発、あらゆる古今東西駆け巡る。

これがアートの究極として、おもしろくないわけないだろう。読み終えた私は、もはや月につきまとわれて、よい薬を探していた。

 

04. 8月 2020 · August 4, 2020* Art Book for Stay Home / no.27 はコメントを受け付けていません · Categories: 日記

『幻想芸術の世界 シュールレアリスムを中心に』坂崎乙郎(講談社現代新書、1969年)

幻想とは、根拠のない空想。とりとめのない想像。

幻想芸術とは、実態、実景とは異なる画家の空想、妄想と言って良いだろう。

そういう空想癖、妄想癖のある人が画家になりやすかったと言える。

空想癖、妄想癖を最もシンプルに人に伝えるために絵画はふさわしい表現方法である。

文学、音楽、あるいは彫刻と比べてみてもその自由さと具体性は、圧倒的に有利な表現手段である。

 

著者は幻想芸術を紐解きながら、20世紀に花開いたシュールレアリスムに焦点を当てていく。

19世紀末、写真が発明されて、それまでの実景を記録するという絵画の大きな役割からの無力を強いられて、対写真からの新たなる価値の創出にシュールレアリスムが誕生したとも言える。

写真の能力を超えた機能としてのシュールレアリスムの役割が浮き彫りとなった。以降、現代まで絵画芸術にとって欠かすことのできない表現手法となっている。

美術史では、多くの表現方法、表現派がこれを知らねば美術を楽しむにあらずと言わんばかりに大手を振っている。そしてそれが煩わしくて、美術を好きになれない人も少なくないのではないかと思っている。そういう方に一つだけ、シュールレアリスムを徹底理解することをお勧めする。なぜならば、シュールレアリスムこそが近代以前の美術の宿命を解き放ち、芸術の未来を開いたのであるから。

現代における多くの絵画の「何故」に答えをくれるヒントがシュールレアリスムにある。

「あっ、そうか」という絵画のおもしろさがシュールレアリスムにある。

美術展に行って、居心地が悪かったら「シュールだなぁ」とつぶやいて納得顔の一つもしていたら、もう一目おかれることに間違いないだろう。そんな手引となってくれるのが本著である。

 

01. 8月 2020 · August 1, 2020* Art Book for Stay Home / no.26 はコメントを受け付けていません · Categories: 日記

『岡本太郎に乾杯』岡本敏子(新潮文庫、2002年)

画家や彫刻家、あるいはデザイナーにおいても、生前の活躍が死後持続されるということはまずない。
よく言われる「作家が亡くなると作品の価格が上がる」という伝説のようなもの。
こういうことは殆どない、おそらく画商が作り上げたセールストークではないだろうか。

作家が亡くなると、新作がなくなり作品の絶対数に対して購入希望者増で、需要と供給の関係から価格が上がるという説である。
ところが作家が亡くなると個展が開催されなくなり、その作家のファンも同世代が多くやはり亡くなっていく。
作品を遺産として相続した遺族たちはファンではないことが多く、市場に売りに出される。
というように需要が減り、供給が増えるというのが現実である。価格は下がり続けるというのが一般的である。
美術の価値は簡単には変動しないが、美術品は流通価値であるので、変動することはやむを得ない。

さて岡本太郎は1996年に亡くなって、以降人気は爆発的に上がっているという他の作家とは異なる流れである。
亡くなってすぐ、人気美術評論家の山下裕二が『岡本太郎宣言』を平凡社より出版。岡本太郎の作品の魅力、評価を格上げした。ここで一気に次世代で岡本太郎ファンが増えた。

さらに本著の岡本敏子の存在。東京女子大文理学部卒業後、出版社を経て、岡本太郎の秘書となる。事実上の妻といわれているが、岡本太郎の養女となる。
1996年に岡本太郎が急逝した際、未完の作品が数点のこっていたが、これらの全作品のその後の製作・仕上げにすべて監修として携わった。また青山のアトリエ兼自宅を美術館として改装・公開を行った。

岡本太郎没後翌年の1997年に本著の単行本『岡本太郎に乾杯』を新潮社より出版、一気に岡本太郎ブームを巻き起こす。
その後亡くなるまでの10年間、岡本太郎に関する著書、監修を27冊出版、多くの講演に奔走した。
その様子は岡本太郎を尊敬、愛する人ではなく、岡本太郎が甦ったように顔さえ似てくるという状況であった。敏子さんは岡本太郎がやり残したことを全て終えて最後の10年を生きた。見事と言うほかない。
かくして岡本太郎の評価は不動のものになり、現在に至っている。
敏子さんの最初の一冊『岡本太郎に乾杯』は岡本太郎の魅力の缶詰のような本である。

28. 7月 2020 · July 28, 2020* Art Book for Stay Home / no.25 はコメントを受け付けていません · Categories: 日記

『モチーフで読む美術史』宮下規久朗(ちくま文庫、2013年)

絵画を鑑賞するときに「何が描かれているか」は、誰もが気になる大きな要素である。
北斎の『富嶽三十六景』を観て、「ああ、富士山。かっこいいな」なんて、日本人なら素直な感想で、共感できるものである。
日本を訪れたことのない外国人ならどう観るだろう。あるいは南の小さな島で、丘はあっても山のないところではどうだろう。
抽象画に至っては「何が描かれているか」の何は具象ではないので、「何も描かれていない」という判断も間違っているとは言えないだろう。だから抽象画は人気がないし、現代美術を考える上で重要な分野となるのである。

つまり絵画の鑑賞において「何が描かれているか」のモチーフは極めて重要であるが、観る人の知識、経験、思想、宗教、生活環境等によって大きく異なる。17世紀ローマの絵画であれば、そのことを踏まえなければ鑑賞の根本がズレてしまうだろう。

本書は、そのモチーフについて具体的に詳細に教えてくれる。
犬、豚、猿、鶏・・・動物から始まって、パン、チーズ、ジャガイモなどの食物、花、天体、道具、乗り物、家、身体の一部、性愛、慈愛、夢に至るまで。

例えば、高橋由一《鮭》。その迫真の描写に感動はするものの、何故鮭を描いたのか。何故、鮭の身が切り取られているのか。高橋は10点以上鮭を描いている。
日本には歳暮に新巻鮭を贈る習慣がある、それにのっとり鮭の絵を贈るという理由。西洋の静物画も贈答用の食材を描いたクセニアという絵画から始まったものである。東北、北海道地方では定期的に捕獲ができ保存に適したため、鮭を神の魚と呼んだアイヌをはじめ、東北各地に神社に奉納するなど鮭伝説が残っているなど信仰と禁忌の対象となった。

そうした「鮭を吊るす、祀る」ことの風俗・文化を知ることで、高橋由一の《鮭》をさらに深い共感をもって鑑賞することができる。

西洋画は、神話、キリスト教など我々の充分知ることのない逸話が多く絵画に描かれている。
美術をもっと楽しむための優れた一冊。

24. 7月 2020 · July 24, 2020* Art Book for Stay Home / no.24 はコメントを受け付けていません · Categories: 日記

『装幀列伝 本を設計する仕事人たち』臼田捷治(平凡社新書、2004年)

日本の本の歴史というのは、和装本と洋装本に分けられる。本書では私たちが図書館等で観ることが可能な明治以降の洋装本について、本を造る人に注目し装丁の美しさ、魅力について語っている。

装丁は誰がするのか。装丁家あるいはブックデザイナーというプロフェッショナルがいる。
しかし、その方たちも含めて装丁の魅力に取り憑かれた人は多く、それはすなわち本というものが、内容のみに依って愛されているのではないこと示している。
一冊の本、あるいは全集、シリーズとしても、本が表現としての造形世界でもあることにほかならない。

編集者による装丁、詩人による装丁、著者自装、画家、版画家、イラストレーターの装丁など、ものづくりの人間にとって装丁は、極めて魅力的な創造物である。
デスクやテーブルに置かれたオブジェ、手に触れて楽しむ愛蔵物としての歓び、書庫を飾る風景として、多様な美を演出してくれるのが装丁である。

待ち時間や電車内で本を読まれている方を見かけると、とても素敵な風景だなと思う。しかしその本が書店カバーなどで覆われているのを見ると、装丁者の気持ちになって悲しくなる。
本は読まれているときが最も本が生きているときであって、その時間とともに装丁も楽しんで欲しい。
読後書棚に保存されるときにカバーを剥がすとしたらあまりにも寂しい。ましてカバーのまま書棚に永遠あると考えたらなお寂しい。
全ての本が、一冊一冊唯一のものとしてデザインされている。

私の自著『きおくにさくはな』(2019年風媒社刊)は私の自装であるが、内容のやさしさ、美しさ、なつかしさを眼と手に感じていただけることを願ってデザインしている。

全ての本が、内容と装丁を楽しむ時間であって欲しい。

19. 7月 2020 · July 19, 2020* Art Book for Stay Home / no.23 はコメントを受け付けていません · Categories: 日記

『日本の庭園・鑑賞ガイド 庭がよくわかる本』野村勘治、撮影:大橋治三(婦人画報社、1994年)

美術の領域をどのように決めるかということは、美術そのものを理解する上で極めて重要なことである。
日本画が好きとか、民芸が好きとか、あるいは映像が好きとか、そのことは観る者の全く自由で、不自由であってはならない。
私は美術の領域を極めて広く考えるべきだと思う。なぜならどの分野も造形的に他領域と関わっており、広く影響を与え合っているからである。また分野はあっても境界線を引くことはできない。

とりわけ日本の庭園は、「龍安寺石庭」に代表されるように美術の一領域として位置づけられているにもかかわらず、鑑賞という点で極めて難解さを感じている人が多い。
本著のサブタイトルには「庭に隠された約束ごと」とある。日本の庭園鑑賞が難しいのは、この「約束ごと」にある。しかも「隠されている」のである。
旅行にでかけて、庭園が名所になっていたから覗いてみたという経験は多くの人があるだろう。しかし入園してはみたものの、どこが良いのだろうか、どこをポイントに見ればよいのか。説明パンフレットには何年に、誰(施主)が造ったかが書かれているものの鑑賞に関してはよくわからない。
本著扉には「それは、庭の歴史が紡いできた約束ごとが隠されているからです。」とある。

難しいことは入門書を手に取るというのが私の方法である。
本著はガイド本であり、3分の2ほどが美しい写真である。当然、有名な庭園は網羅されている、既に行ったところもある。

造形物を楽しむというのが美術の基本である。
しかし、絵画のような平面、彫刻のような立体は物理的に捉えやすいが、庭は空間である。
空間は対峙して観ることもできるが、空間という作品の中に入って観ることもできる。
空間の中に入ると見え方(景色)が変化する。
そこには時間も感じられて、自らの人生の長さを通して観ることになる。
歳を重ねるほど庭の良さを愉しむことができるのはそこにある。

11. 7月 2020 · July 11, 2020* Art Book for Stay Home / no.22 はコメントを受け付けていません · Categories: 日記

『等伯』安部龍太郎(文春文庫、2015年)

アートブックシリーズで初めての小説を紹介。
もちろんフィクションですが、美術史では書けない長谷川等伯の人間模様が解ってとてもおもしろい。
もちろん実在人物なので、判っているところはすべて事実に即していると考えられる。
等伯が等伯になる前の長谷川信春(のぶはる)を克明に描いている。
そしてやはり画家の道を歩む息子の久蔵のことも。

千利休、狩野永徳、豊臣秀吉、石田三成、春屋宗園、近衛前久、歴史に連なる実在人物と等伯の関係、特に狩野派と等伯(のち長谷川派)の絵師仕事を受注する争いは、美術を美しいものとする以前に見応えのあるものである。

庶民を対象とした浮世絵とは異なり、天下人の寵愛を獲得することなしに屏風絵、襖絵は存在しない。
また残り得なかったとも言える。京の富裕商人も天下人に習って贔屓としたのである。

美術に限定するまでもなく、文化の領域で小説の主人公として取り上げられる人物がいかに少ないことかと思う。
まず知名度があって、人生にドラマがあって、主人公に関する資料がどれだけ残されているか。絵師は描いた絵が大きな資料となる。
等伯の場合も代表作《松林図》をはじめ多くの屏風絵、襖絵が残されており、そこから人生を読み取ることができる。

小説『等伯』によって、等伯の人物像を浮かび上がらせることができる。その上で《松林図》を観ることは、人間ドラマとともに楽しむ、美術のあじわい方の一つであると思う。
小説『等伯』は直木賞受賞作であるが、美術と文学に虹の橋を架けるエンターテイメントである。

05. 7月 2020 · July 5, 2020* Art Book for Stay Home / no.21 はコメントを受け付けていません · Categories: 未分類

『ぼくの美術帖』原田治(みすず書房、2006年)

昨日から本館で始まった「原田治展『かわいい』の発見」。
その原田治の著書、展覧会のショップでも販売している。
「かわいい」の秘密が書かれているのかと期待してみたら、そういう本ではない。
最初の一文は「美術について、思いのまま記すのは楽しいことです。展覧会で見た或る絵に感動して、それを親しい友人に告げる楽しみに似ています。」

前半の作家論では、ティツィアーノ、ラウル・デュフィ、小村雪岱、木村荘八、鏑木清方、宮田重雄、鈴木信太郎、アーニー・ブッシュミラー、チョン・ディとオットー・ソグロー、北園克衛、川端実が取り上げられている。
美術史で有名な作家から、知らないなぁという作家まで、西洋画家から日本画家、漫画家から前衛画家まで、その幅の広さに驚いてしまう。しかも上辺の感想のレベルでは決してなく、深層に迫る鋭い視点を見せている。私は大いに共感しながら読み進めた。

後半では、美意識の源流を、谷川徹三著『縄文的原型と弥生的原型』を取り上げ日本史の視野から論じている。その後は戦国時代の兜、江戸歌舞伎、浮世絵師、原田が頂点とする俵屋宗達、富岡鉄斎、岸田劉生と結んでいく。美術に対する驚くばかりの見識である。

「原田治展『かわいい』の発見」オープンと同時に訪れた原田治ファンの方と話した。「展覧会を観て、オサムグッズばかりでなく、原田さんがこんな作品、こんな仕事をしていたなんて、大変驚きました。」
多くの原田治ファンはオサムグッズの魅力に引き寄せられ、イラストレーター原田治として理解している。
しかし原田治はデザイナーでもある。
イラストレーター原田治をアート・ディレクションするデザイナー原田治がいる。
デザイナーはクライアントの依頼に対してどのように満足な答えを出すか、イラストレーターに要求する。

デザイナー原田治がその美意識の秘密を書いたのが『ぼくの美術帖』である。
ぜひ「原田治展『かわいい』の発見」でもう一人の原田治も観てほしい。

03. 7月 2020 · July 3, 2020* 原田治 展「かわいい」の発見、オープン前の舞台裏。 はコメントを受け付けていません · Categories: 展覧会

展覧会は舞台ではない。しかし「原田治展」は舞台がイメージされる。

たくさんのかわいいキャラクターたちが舞台で笑顔を見せてくれる。

その準備は舞台装置を造ること。舞台裏を覗いてみよう。

原田治はイラストレーター、画家ではない。

広告、印刷物、グッズのために絵を描く。描かれた絵は、広告、印刷物、グッズになって完成される。

本展の美術館入口に設置された巨大ディスプレイ(写っているのは奥村学芸員)も原田の作品であるが、元の絵(原画)はとても小さい。

すべての原画は実際にどのような大きさで使用されるかイラストレーターは充分に想像、配慮して描くが、原寸で描くということはほとんどなく、大きな絵も小さな原画であることが多い。

また小さな絵も小さな原画ではない。つまり描きやすい大きさで描かれるのである。

展覧会場でそこのところもぜひ確認してほしい。

 

原田治作品を楽しむのは、暮らし、リビング、マイルーム、友だちと会うカフェや公園、ストリートだ。

小さな空間、手が届くような作品との距離感。ワクワクしてくる原田作品の舞台。

 

もうひとつの大きな楽しみは、グッズ。原田治といえばオサムグッズだ。

展覧会場に連続するようにオサムグッズショップが開店する。もちろんショッピングOK。「かわいい」は「楽しい」だよ。いよいよオープン。

  

 

30. 6月 2020 · June 30, 2020* Art Book for Stay Home / no.20 はコメントを受け付けていません · Categories: 未分類

『書とはどういう芸術か 筆触の美学』石川九楊(中公新書、1994年)

真正面から切り込んだ凄い書名だ。「書とは芸術か」ではない。
もちろん芸術ではあるけれど、「どういう芸術か」という問いである。そしてタイトルにズバリその答え「筆触の美学」を連ねている。

この「書とは・・・」に「絵画とは・・・」「デザインとは・・・」「工芸とは・・・」「写真とは・・・」「サブカルチャーとは・・・」あるいは「映画とは・・・」「演劇とは・・・」「俳句とは・・・」を考えてみると、いかに著者自らに厳しい書名(テーマ)を持ち込んだかがわかる。
そして本著ではその「書とは・・・」について徹底した論証を行っている。広く芸術について考えてきた私の大きな死角「書」についてサーチライトを当てるかのような本書である。

石川九楊は自ら書家であり、書道史家でもある。
1963年弁護士を目指して京都大学法学部に入学したが、弁護士を断念して書の道に進む。
書家として、書道塾経営者として、あるいは書著述家として生計を立てることは大変困難であることは想像に難くない。
そうした強い覚悟のもとに50冊を超える著述がある。私は書とは別の『〈花〉の構造 日本文化の基層』(ミネルヴァ書房)2016年刊も読んだが、「花とはなにか」の真に迫る論であった。

多くの市民・県民ギャラリーで書道展が活発に開催され、またあるいは市展・県展においても書道部門は必ず一角を占めている。一般感覚では「書は芸術である」と認識されているものの、実態は極めて希薄である。
これまでの書に関する位置づけでは「書は美術ならず」「書は文字の美的工夫」「書は線の美」「書は文字の美術」「書は人なり」など、芸術に関わって賛否迷走してきたのである。
2019年8月から10月、古川美術館ならびに分館為三郎記念館において、特別展「第二楽章〜書だ!石川九楊」が開催された。会場で初めて九楊さんにお会いした。心技体磨き極めた孤高の武人のようだった。