『ルオー』小林利裕(近代文芸社、1998年)
画家ジョルジュ・ルオーの知名度は高い。それは強烈な印象で迫る強い黒と彩度の高い多様な色で描かれた表現によることが大きいと思われる。表現は理屈抜きで脳に訴えるものである。油絵を描き始めた初心者の多くがルオーのような表現を身に付けたいと思う人が多いと聞く。それだけ魅力的な表現である。しかし果たしてルオーの絵の強い記憶はその表現によるものだけだろうか。多く描かれたキリストや聖者たちの姿、顔、瞳、それらがキリスト教信者でなくとも心に訴えて記憶に結びついていくのではないだろうか。
著者小林利裕は、東京大学哲学科を卒業、多くの哲学についての著書がある。哲学のほかに島崎藤村、太宰治、ゴッホなど文学、美術の領域に踏み込んで書かれたものがある。本著『ルオー』もその一つである。
小林が本著「ルオー」で書いているのは、ルオーがどのような絵画を描こうとしたかである。「どのような」とは、どのような表現ではなく、どのような想いを描こうとしたかである。もちろん絵画であるので、表現を切り離して語ることはなく、どのような想いが表現に結びついているのかを書いている。
残念ながら、ルオーの絵画は口絵でカラー2点、モノクロ2点と極めて少なく、文中で紹介されている40点ほどの絵画を、別の画集を開きながら読むということを強いられた。
そういう面倒な読み方をしたにも関わらず、読み終えることができたのは、キリスト教とその哲学からルオーの想いがどのようなものであったか、その想いに引き寄せられてのものだった。
ルオーはフォーヴィスムの画家という分類がなされることがあるが、それはたまたま結果としてのもので、フォーヴィスムの画家として分類すべきではないと述べている。そのことについては私も大いに共感する。