『ウォーホルの芸術 20世紀を映した鏡』宮下規久朗(光文社新書、2010年)
Art Book for Stay Home /no.35で『とらわれない言葉』アンディ・ウォーホルを、no.52で『1964-67アンディ・ウォーホル』ナット・フィルケンスタインを紹介した。一度目はウォーホルの叫びを、二度目は最も近距離からのウォーホル友人の声、そして三度目の本著はウォーホルから距離も時間も離れて客観的に書かれている。最も美術論的ウォーホルの紹介である。
美術史としてのウォーホルはどういう脈略を持っているのか、ウォーホルの表現はなぜこうなのか。ウォーホル自身が読めば「くそくらえ!」と言いそうな、あるいは「ナイス!」かも知れないような、大変おせっかいなウォーホル論である。しかしそれはダビンチであろうが、ゴッホであろうが、作者が望むか望まないかに関わらず膨大な美術史の一コマとして組み込まれていく。
ウォーホルの登場から活躍のアート現象を、少し遅れた同時代から観ると、それが美術史や美術論の中でどういう意味を持つかなど、全くどうでも良い。目の当たりにしているアートそのものが観る者にどれだけの衝撃、感動を与えるか、その価値によってのみ存在している。だが美術館、美術大学は鑑賞者の感動で作家を位置づけることはしない。客観的事実を積み重ねて作家の美術史的意味を位置づける。
あらためて、『ウォホールの芸術 20世紀を映した鏡』を読むと、なるほどと納得せざるを得ない、さすがである。特にキャンベルスープのシリーズ、モンローのシリーズにおいては丹念になぜ他のシリーズよりも魅力的なのかが語られている。また死と惨禍のシリーズにおいては、負のテーマを抱えたウォホールの分析を丹念に行っている。
ウォホールが生きていて、納得するかどうかではない。ウォホール自身の意識の届かぬところも含めて、作品が生まれ、評価され、ウォホールの思想やキャラクターが死の先まで創られて行くことを予期し、楽しんでいたと想像されるからである。