28. 7月 2020 · July 28, 2020* Art Book for Stay Home / no.25 はコメントを受け付けていません · Categories: 日記

『モチーフで読む美術史』宮下規久朗(ちくま文庫、2013年)

絵画を鑑賞するときに「何が描かれているか」は、誰もが気になる大きな要素である。
北斎の『富嶽三十六景』を観て、「ああ、富士山。かっこいいな」なんて、日本人なら素直な感想で、共感できるものである。
日本を訪れたことのない外国人ならどう観るだろう。あるいは南の小さな島で、丘はあっても山のないところではどうだろう。
抽象画に至っては「何が描かれているか」の何は具象ではないので、「何も描かれていない」という判断も間違っているとは言えないだろう。だから抽象画は人気がないし、現代美術を考える上で重要な分野となるのである。

つまり絵画の鑑賞において「何が描かれているか」のモチーフは極めて重要であるが、観る人の知識、経験、思想、宗教、生活環境等によって大きく異なる。17世紀ローマの絵画であれば、そのことを踏まえなければ鑑賞の根本がズレてしまうだろう。

本書は、そのモチーフについて具体的に詳細に教えてくれる。
犬、豚、猿、鶏・・・動物から始まって、パン、チーズ、ジャガイモなどの食物、花、天体、道具、乗り物、家、身体の一部、性愛、慈愛、夢に至るまで。

例えば、高橋由一《鮭》。その迫真の描写に感動はするものの、何故鮭を描いたのか。何故、鮭の身が切り取られているのか。高橋は10点以上鮭を描いている。
日本には歳暮に新巻鮭を贈る習慣がある、それにのっとり鮭の絵を贈るという理由。西洋の静物画も贈答用の食材を描いたクセニアという絵画から始まったものである。東北、北海道地方では定期的に捕獲ができ保存に適したため、鮭を神の魚と呼んだアイヌをはじめ、東北各地に神社に奉納するなど鮭伝説が残っているなど信仰と禁忌の対象となった。

そうした「鮭を吊るす、祀る」ことの風俗・文化を知ることで、高橋由一の《鮭》をさらに深い共感をもって鑑賞することができる。

西洋画は、神話、キリスト教など我々の充分知ることのない逸話が多く絵画に描かれている。
美術をもっと楽しむための優れた一冊。

24. 7月 2020 · July 24, 2020* Art Book for Stay Home / no.24 はコメントを受け付けていません · Categories: 日記

『装幀列伝 本を設計する仕事人たち』臼田捷治(平凡社新書、2004年)

日本の本の歴史というのは、和装本と洋装本に分けられる。本書では私たちが図書館等で観ることが可能な明治以降の洋装本について、本を造る人に注目し装丁の美しさ、魅力について語っている。

装丁は誰がするのか。装丁家あるいはブックデザイナーというプロフェッショナルがいる。
しかし、その方たちも含めて装丁の魅力に取り憑かれた人は多く、それはすなわち本というものが、内容のみに依って愛されているのではないこと示している。
一冊の本、あるいは全集、シリーズとしても、本が表現としての造形世界でもあることにほかならない。

編集者による装丁、詩人による装丁、著者自装、画家、版画家、イラストレーターの装丁など、ものづくりの人間にとって装丁は、極めて魅力的な創造物である。
デスクやテーブルに置かれたオブジェ、手に触れて楽しむ愛蔵物としての歓び、書庫を飾る風景として、多様な美を演出してくれるのが装丁である。

待ち時間や電車内で本を読まれている方を見かけると、とても素敵な風景だなと思う。しかしその本が書店カバーなどで覆われているのを見ると、装丁者の気持ちになって悲しくなる。
本は読まれているときが最も本が生きているときであって、その時間とともに装丁も楽しんで欲しい。
読後書棚に保存されるときにカバーを剥がすとしたらあまりにも寂しい。ましてカバーのまま書棚に永遠あると考えたらなお寂しい。
全ての本が、一冊一冊唯一のものとしてデザインされている。

私の自著『きおくにさくはな』(2019年風媒社刊)は私の自装であるが、内容のやさしさ、美しさ、なつかしさを眼と手に感じていただけることを願ってデザインしている。

全ての本が、内容と装丁を楽しむ時間であって欲しい。

19. 7月 2020 · July 19, 2020* Art Book for Stay Home / no.23 はコメントを受け付けていません · Categories: 日記

『日本の庭園・鑑賞ガイド 庭がよくわかる本』野村勘治、撮影:大橋治三(婦人画報社、1994年)

美術の領域をどのように決めるかということは、美術そのものを理解する上で極めて重要なことである。
日本画が好きとか、民芸が好きとか、あるいは映像が好きとか、そのことは観る者の全く自由で、不自由であってはならない。
私は美術の領域を極めて広く考えるべきだと思う。なぜならどの分野も造形的に他領域と関わっており、広く影響を与え合っているからである。また分野はあっても境界線を引くことはできない。

とりわけ日本の庭園は、「龍安寺石庭」に代表されるように美術の一領域として位置づけられているにもかかわらず、鑑賞という点で極めて難解さを感じている人が多い。
本著のサブタイトルには「庭に隠された約束ごと」とある。日本の庭園鑑賞が難しいのは、この「約束ごと」にある。しかも「隠されている」のである。
旅行にでかけて、庭園が名所になっていたから覗いてみたという経験は多くの人があるだろう。しかし入園してはみたものの、どこが良いのだろうか、どこをポイントに見ればよいのか。説明パンフレットには何年に、誰(施主)が造ったかが書かれているものの鑑賞に関してはよくわからない。
本著扉には「それは、庭の歴史が紡いできた約束ごとが隠されているからです。」とある。

難しいことは入門書を手に取るというのが私の方法である。
本著はガイド本であり、3分の2ほどが美しい写真である。当然、有名な庭園は網羅されている、既に行ったところもある。

造形物を楽しむというのが美術の基本である。
しかし、絵画のような平面、彫刻のような立体は物理的に捉えやすいが、庭は空間である。
空間は対峙して観ることもできるが、空間という作品の中に入って観ることもできる。
空間の中に入ると見え方(景色)が変化する。
そこには時間も感じられて、自らの人生の長さを通して観ることになる。
歳を重ねるほど庭の良さを愉しむことができるのはそこにある。

11. 7月 2020 · July 11, 2020* Art Book for Stay Home / no.22 はコメントを受け付けていません · Categories: 日記

『等伯』安部龍太郎(文春文庫、2015年)

アートブックシリーズで初めての小説を紹介。
もちろんフィクションですが、美術史では書けない長谷川等伯の人間模様が解ってとてもおもしろい。
もちろん実在人物なので、判っているところはすべて事実に即していると考えられる。
等伯が等伯になる前の長谷川信春(のぶはる)を克明に描いている。
そしてやはり画家の道を歩む息子の久蔵のことも。

千利休、狩野永徳、豊臣秀吉、石田三成、春屋宗園、近衛前久、歴史に連なる実在人物と等伯の関係、特に狩野派と等伯(のち長谷川派)の絵師仕事を受注する争いは、美術を美しいものとする以前に見応えのあるものである。

庶民を対象とした浮世絵とは異なり、天下人の寵愛を獲得することなしに屏風絵、襖絵は存在しない。
また残り得なかったとも言える。京の富裕商人も天下人に習って贔屓としたのである。

美術に限定するまでもなく、文化の領域で小説の主人公として取り上げられる人物がいかに少ないことかと思う。
まず知名度があって、人生にドラマがあって、主人公に関する資料がどれだけ残されているか。絵師は描いた絵が大きな資料となる。
等伯の場合も代表作《松林図》をはじめ多くの屏風絵、襖絵が残されており、そこから人生を読み取ることができる。

小説『等伯』によって、等伯の人物像を浮かび上がらせることができる。その上で《松林図》を観ることは、人間ドラマとともに楽しむ、美術のあじわい方の一つであると思う。
小説『等伯』は直木賞受賞作であるが、美術と文学に虹の橋を架けるエンターテイメントである。

05. 7月 2020 · July 5, 2020* Art Book for Stay Home / no.21 はコメントを受け付けていません · Categories: 未分類

『ぼくの美術帖』原田治(みすず書房、2006年)

昨日から本館で始まった「原田治展『かわいい』の発見」。
その原田治の著書、展覧会のショップでも販売している。
「かわいい」の秘密が書かれているのかと期待してみたら、そういう本ではない。
最初の一文は「美術について、思いのまま記すのは楽しいことです。展覧会で見た或る絵に感動して、それを親しい友人に告げる楽しみに似ています。」

前半の作家論では、ティツィアーノ、ラウル・デュフィ、小村雪岱、木村荘八、鏑木清方、宮田重雄、鈴木信太郎、アーニー・ブッシュミラー、チョン・ディとオットー・ソグロー、北園克衛、川端実が取り上げられている。
美術史で有名な作家から、知らないなぁという作家まで、西洋画家から日本画家、漫画家から前衛画家まで、その幅の広さに驚いてしまう。しかも上辺の感想のレベルでは決してなく、深層に迫る鋭い視点を見せている。私は大いに共感しながら読み進めた。

後半では、美意識の源流を、谷川徹三著『縄文的原型と弥生的原型』を取り上げ日本史の視野から論じている。その後は戦国時代の兜、江戸歌舞伎、浮世絵師、原田が頂点とする俵屋宗達、富岡鉄斎、岸田劉生と結んでいく。美術に対する驚くばかりの見識である。

「原田治展『かわいい』の発見」オープンと同時に訪れた原田治ファンの方と話した。「展覧会を観て、オサムグッズばかりでなく、原田さんがこんな作品、こんな仕事をしていたなんて、大変驚きました。」
多くの原田治ファンはオサムグッズの魅力に引き寄せられ、イラストレーター原田治として理解している。
しかし原田治はデザイナーでもある。
イラストレーター原田治をアート・ディレクションするデザイナー原田治がいる。
デザイナーはクライアントの依頼に対してどのように満足な答えを出すか、イラストレーターに要求する。

デザイナー原田治がその美意識の秘密を書いたのが『ぼくの美術帖』である。
ぜひ「原田治展『かわいい』の発見」でもう一人の原田治も観てほしい。

03. 7月 2020 · July 3, 2020* 原田治 展「かわいい」の発見、オープン前の舞台裏。 はコメントを受け付けていません · Categories: 展覧会

展覧会は舞台ではない。しかし「原田治展」は舞台がイメージされる。

たくさんのかわいいキャラクターたちが舞台で笑顔を見せてくれる。

その準備は舞台装置を造ること。舞台裏を覗いてみよう。

原田治はイラストレーター、画家ではない。

広告、印刷物、グッズのために絵を描く。描かれた絵は、広告、印刷物、グッズになって完成される。

本展の美術館入口に設置された巨大ディスプレイ(写っているのは奥村学芸員)も原田の作品であるが、元の絵(原画)はとても小さい。

すべての原画は実際にどのような大きさで使用されるかイラストレーターは充分に想像、配慮して描くが、原寸で描くということはほとんどなく、大きな絵も小さな原画であることが多い。

また小さな絵も小さな原画ではない。つまり描きやすい大きさで描かれるのである。

展覧会場でそこのところもぜひ確認してほしい。

 

原田治作品を楽しむのは、暮らし、リビング、マイルーム、友だちと会うカフェや公園、ストリートだ。

小さな空間、手が届くような作品との距離感。ワクワクしてくる原田作品の舞台。

 

もうひとつの大きな楽しみは、グッズ。原田治といえばオサムグッズだ。

展覧会場に連続するようにオサムグッズショップが開店する。もちろんショッピングOK。「かわいい」は「楽しい」だよ。いよいよオープン。

  

 

30. 6月 2020 · June 30, 2020* Art Book for Stay Home / no.20 はコメントを受け付けていません · Categories: 未分類

『書とはどういう芸術か 筆触の美学』石川九楊(中公新書、1994年)

真正面から切り込んだ凄い書名だ。「書とは芸術か」ではない。
もちろん芸術ではあるけれど、「どういう芸術か」という問いである。そしてタイトルにズバリその答え「筆触の美学」を連ねている。

この「書とは・・・」に「絵画とは・・・」「デザインとは・・・」「工芸とは・・・」「写真とは・・・」「サブカルチャーとは・・・」あるいは「映画とは・・・」「演劇とは・・・」「俳句とは・・・」を考えてみると、いかに著者自らに厳しい書名(テーマ)を持ち込んだかがわかる。
そして本著ではその「書とは・・・」について徹底した論証を行っている。広く芸術について考えてきた私の大きな死角「書」についてサーチライトを当てるかのような本書である。

石川九楊は自ら書家であり、書道史家でもある。
1963年弁護士を目指して京都大学法学部に入学したが、弁護士を断念して書の道に進む。
書家として、書道塾経営者として、あるいは書著述家として生計を立てることは大変困難であることは想像に難くない。
そうした強い覚悟のもとに50冊を超える著述がある。私は書とは別の『〈花〉の構造 日本文化の基層』(ミネルヴァ書房)2016年刊も読んだが、「花とはなにか」の真に迫る論であった。

多くの市民・県民ギャラリーで書道展が活発に開催され、またあるいは市展・県展においても書道部門は必ず一角を占めている。一般感覚では「書は芸術である」と認識されているものの、実態は極めて希薄である。
これまでの書に関する位置づけでは「書は美術ならず」「書は文字の美的工夫」「書は線の美」「書は文字の美術」「書は人なり」など、芸術に関わって賛否迷走してきたのである。
2019年8月から10月、古川美術館ならびに分館為三郎記念館において、特別展「第二楽章〜書だ!石川九楊」が開催された。会場で初めて九楊さんにお会いした。心技体磨き極めた孤高の武人のようだった。

27. 6月 2020 · June 26, 2020* Art Book for Stay Home / no.19 はコメントを受け付けていません · Categories: 日記

『イスのかたち デザインからアートへ』企画・編集 村田慶之輔、宮島久雄、榮樂徹、塩田昌弘、建畠晢、中田達郎(国立国際美術館、1978年)

デザインとアートの違いを明確に説明したいと、学生時代から考え続けてきた。28歳のとき、椅子の造形というものに出会って、霧が晴れるように一気に解ってきた。

「椅子というものはアートなのか、デザインなのか」
どちらだって良いという答えは思考を停止させる。どちらでもあるという答えは思考を曖昧にさせる。
1978年8月に大阪の国立国際美術館で開催された「イスのかたち デザインからアートへ」という展覧会は、「椅子というものはアートなのか、デザインなのか」を140点のイス作品で問うものであった。

グッドデザインを追求したシンプルで美しいイス、座り心地を徹底追及したイス、想像を超えるフォルムのイス、かつてない素材で生み出されたイス、鑑賞することのみのために造られた座ることのできないイス(しかし鑑賞は座るというイスの機能を通して観ることを前提としている)、140点が140のコンセプトを持つイスであった。

例えば、今では著名な倉俣史朗の《硝子の椅子》、1976年にデザインされたばかりであった。
6枚の長方形のガラスのみで造られている。もちろん座ることができ、量産することもできる。デザインにとって目的を果たす機能と量産は重要な条件である。
多くのイスが座り心地を予想できる中で《硝子の椅子》は予想不可であり、その「割れるかも知れない」という緊張と不安、ときめきは視覚的な美しさを見事なまでに高めている。

岡本太郎の《座ることを拒否する椅子》、数ある岡本太郎作品の中でも代表的なものである。
岡本は「いわゆるモダン・ファニチュアのいかにも座ってちょうだいと、シナをつくっている不潔さに腹を立て」この椅子を造ったという。
陶器製で鑑賞しても楽しいが、座面が凸凹していて短時間であればお尻が笑って喜びそうな椅子である。デザインを真っ向から否定して、これもまた楽しいデザインという岡本のアートとデザインを巧みに行き来する傑作である。

福田繁雄の《トランク椅子》は大きなトランクそのものの形であり革と金属という本物と同素材でできている。
座わる人がいなければ大きなオブジェだが、座ってみたい衝動を掻き立てる、座ればたちまちイスである。

イスと言うものは明らかにデザインであるが、身体に極めて直結する精神的なものであり、生きる上で全ての人間が強く関わるものである。
精神性と深く関わるアートにとって、魅力的なモチーフでもある。
イスはアートとデザインのクロスロードであり、「アートとはなにか、デザインとはなにか」の答えを導いてくれるものである。

1978年のこの「イスのかたち デザインからアートへ」という展覧会は、その後の私のデザイン&アートワークの確かな指針となるものだった。

24. 6月 2020 · June 24, 2020* 「ルート・ブリュック 蝶の軌跡」を回想する。 はコメントを受け付けていません · Categories: 日記

全国の美術館における企画展会期がコロナウイルス感染症拡大防止対策のため、ポスターやチラシで発表されていたものと変更開催の運びとなっていることに要注意である。
本館が開催中の「富永敏博展」も同様です。

岐阜県現代陶芸美術館で開催中の「ルート・ブリュック 町の軌跡」展も4月25日から7月5日までの予定が、6月6日から8月16日までに変更された。
展示作品は、返却や次の会場へのスケジュールがすでに組まれており、保険や作品輸送業者の手配などの問題が山積みである。
しかしもっと大切なことは、展覧会を楽しみとしてくださっている多くの来館者の期待に応えることである。

 

早速、岐阜県多治見市にある岐阜県現代陶芸美術館に出かけてきた。

ルート・ブリュックはオーストリア人画家で蝶類学者の父と、旧フィンランド領カレリア地方出身の母のもとに、スウェーデンのストックホルムに生まれる。両親の別離に伴い母と兄弟とともにフィンランドに移住。
こうした多様なルーツは芸術家にとって大きな抽斗となり、豊かな表現に結びついていくことが多い。
また建築家になる夢を持ちながらグラフィックアートを学び、グラフィックデザインやテキスタイルデザイン、イラストレーターの仕事に就く。
26歳のときアラビア製陶所美術部門に招聘され、以降およそ50年に渡り同部門で活躍。
陶磁器を基本においたアラビア製陶所美術部門はルート・ブリュックの多様な才能を開花させるのに素晴らしい環境であったことを、この展覧会を観て確信する。

アラビア製陶所美術部門のアーティストは、スタジオとアシスタントを与えられ、完全に自由な制作を許されていた。基本給に加えて、作品が売れるごとに歩合給を受け取ったほか、さらに工場の窯や材料も自由に使うことができた。
美術部門をもつ製陶所はほかにもあるが、ここまで自由度の高いところはとても珍しい。もちろん日本でも聞いたことがない。
ただし、ブリュックはやがて給料の受け取りを放棄し、マーケティングで彼女の名前を使用することは禁じる一方、アーティストとしての権利は保持していた。

戦中戦後には存続の危機に直面したこともあったが、約70年の歴史を刻んだ美術部門は2003年にアラビアから独立し、「アラビア・アートデパートメント協会」という組織として新たな一歩を踏み出した。
現在は8人のアーティストが在籍し、昔と変わらず、旧アラビア製陶所の9階にあるスタジオで自由な制作が続けられている。

私は、アラビア製陶所美術部門のこうした優れた取り組みに興味をいだき、1991年と1998年にアポイントを取って訪問した。
担当の美術部門長は、工場、工房、アーティストのアトリエ、広大なギャラリー、ショールームを笑みと誇りを持って案内してくれた。
ルート・ブリュックの自由で夢に彷徨うような作品群は、アラビア製陶所との共演の中からこそ生まれ得たものと考える。

         

23. 6月 2020 · June 21, 2020* Art Book for Stay Home / no.18 はコメントを受け付けていません · Categories: 日記

『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?経営における「アート」と「サイエンス」』山口 周(光文社新書、2017年)

 

本著を読むきっかけとなったのは、友人でもある金融関係のトップマネージャーの方のお薦めである。「既にお読みかと思いますが、大変興味深い本ですね」とお話しいただき、Googleで調べてみたら既に専門書のベストセラーだった。

少し残念だったのはビジネス部門ではなく美術部門であったこと。

 

この書名の「エリート」は、ビジネスエリートのことを指している。そしてこの本は美術ファンに対して書かれたものではなく、ビジネスマンに向けて書かれた本である。

グローバル企業が、その幹部候補をアートスクールや美術館が開催するギャラリートークに送り込んで来るようになっているというのである。

それはかっこいい教養を身につけるためではなく、ビジネスにおける極めて功利的な目的のために「美意識」を鍛えているのだ。

 

これまでビジネスは、「分析」「論理」「理性」に軸をおいた経営、いわば「サイエンス重視」であった。

それは既にAIの領域となりつつあり、ビジネスエリートが身につけるものではなくなっている。

AIによる分析や判断は、どの企業も平等に取得できるものであり、また今日のように複雑で予測不可能な世界において、ビジネスの舵取りはできないことを知るからである。

 

現代美術は、論理的、理性的情報処理を否定するものではなく、それらを取り込み、超えて自己実現を目指す。

「偏差値は高いが美意識は低い」人間は決してAIを超えることはできない。

「美意識を鍛える」ためにはどうするのか。美術館は極めて大きな可能性を持っているが、哲学、モード、文学(詩)に美意識の根源があるという。

近年、エリートの塊のような官僚の崩壊がとりざたされているが、彼らが極めて美意識が低いことと無関係ではないと思う。