29. 9月 2020 · September 29, 2020* Art Book for Stay Home / no.37 はコメントを受け付けていません · Categories: 日記

『イリュージョン』エディ・ラナーズ、高山宏訳(河出書房新社、1989年)

イリュージョンってなんだろう。この著書ではズバリ錯覚という意味で用いている。錯覚も五感それぞれにあるが、特に視覚による錯覚(錯視)について取り上げている。そのイリュージョンが美術、造形世界で表現要素として多様な役割を担っていることを図解し、美術、デザインとともに解説している。「あっ、そうか」という解りやすい著書である。

ところがイリュージョンにはもう一つ意味があって、大掛かりな仕掛けを用いた奇術という意味がある。こちらのほうが一般的だろう。かつては手品だったことが同じ技なのにマジックと言われるようになり、イリュージョンと呼ばれるようになると、凄いことのように感じられる。なじまない新しい言葉には、なんだか凄いという錯覚に陥りやすい。

2009年、名古屋市美術館で特別展「視覚の魔術—だまし絵」が開催された。展覧会のテーマとタイトルには何十年も関心を持ち続けているが、ずばり「だまし絵」はこんなに解りやすくていいのだろうか。「やられた」と思った。このタイトルにはエピソードがあって、名古屋市議会で「だます」とは何事かと議員から意見が出たとのことである。美術館の方は押し切る形で「視覚の魔術—だまし絵」を開催した。結果、かつてないほどの入場者を記録した。多数の入場者を迎える展覧会は「ゴッホ展」とか「ピカソ展」のような超巨匠と決まっている。

「視覚の魔術—だまし絵」に出かけていって驚いた。普段美術館にはあまり関心がない層、若い男性が大半を占めていたことだ。しかも父親と息子という組み合わせがかなり目につく。分析してみた、この展覧会は美術というよりも、科学美術であること。理系に関心の強い男性には大変興味深い美術であったわけだ。科学館に出かけたように楽しんでいる父親がいて男の子がいた。

本著に戻ろう。古今東西民画も多い中で、M・C・エッシャー、ルネ・マグリット、サルバードル・ダリ、ジュゼッペ・アルチンボルドが取り上げられている。男性が好きな作家というのが、どこか科学的であることと繋がっていることが興味深い。

そして、この本そのものの編集、装丁がイリュージョンになっている。どのようなイリュージョンかと言うと、それはこの本を手にとった時の楽しみとしよう。

 

22. 9月 2020 · September 21, 2020* 物語としての建築ー若山滋と弟子たち展ー始まる。 はコメントを受け付けていません · Categories: 展覧会

優れた文章表現ができる人は、優れた話ができる人でもある。先週の土曜日から始まった本展での初日のトークのことである。若山滋と妹島和世のトークセッションを予定していたが、都合により残念ながら延期となった。変更して若山滋ギャラリートークとなった。

若山「建築の展覧会といえば、設計図、建築モデルと完成後の写真である。まずはそれをやめよう、やめるところから始めよう。本展では設計図と完成写真をやめて、モノクロームのモデルと設計への想いを言葉にした。どれだけ詳細なものを持ち込んでもそこに実物はない。建築を観るということは、建築のあるところに出かけなくてはならない。」

今の「物語としての建築」の物語が強く語られる展覧会である。当館では初めての建築分野である。もっとも美術館での建築展は大変珍しく、国際的視野で捉えても極めて稀である。これまで開催された建築展は、実物のない中でどう見せるか、その挑戦であったと思う。ちょうど3年前の9月、国立新美術館で開催された「安藤忠雄展ー挑戦ー」は、実物のない中でどう見せるかの挑戦でもあった。広大な展示室に可能な限りのシミュレーションを展開し、臨場感を見せていた。また展示会場に隣接した屋外には代表作の一つ「光の教会」を原寸再現した。実物のない建築展に実物を持ち込むという度肝を抜くものであった。しかし、「光の教会」は大阪府茨木市にあって、会場にあるものはレプリカであって実物ではない。建築は実寸、実素材、実工法で造られても、建築が建つ風土、歴史を再現することはできない。

「物語としての建築」は、実物に迫る展示とは全く異なる、想い(物語)を見せる展覧会である。

また「安藤忠雄展ー挑戦ー」でも叶わなかった実物がある。夢広場はるひである。この公園、公園に建つ美術館、図書館、野外ステージは若山滋の設計した実物である。美術館展示室には物語が語られて、美術館を出るとその物語を体現する、そういう建築展である。

 

19. 9月 2020 · September 19, 2020* Art Book for Stay Home / no.36 はコメントを受け付けていません · Categories: 日記

『寡黙なる饒舌』若山滋(現代書館、2020年)

清須市はるひ美術館では現在「物語としての建築―若山滋と弟子たち展ー」を開催中。その若山滋の最新著である。若山には『建築へ向かう旅』(冬樹社)、『「家」と「やど」―建築からの文化論』(朝日新聞社)『ローマと長安―古代世界帝国の都』(講談社現代新書)ほか何冊も名著があるが、7月に私のところに本著が贈られてきて「多くの人にお薦めを」とのことであった。おっしゃる通り薦めたくなる一冊であった。

建築に関する本は、建築家自身の著作も含めて多く読んでいる、建築が好きだからである。建築家が本を著すとなると当然自らの建築心情に関するものになり、それはそれでおもしろいのだが、若山の著作は異なる。ほとんどの著作が建築家としての自分から距離をおいている、距離を置いて書く力があるということだ。若山についてよく言われることだが「建築ともう一本の柱として文学がある」、建築を文学の思想で語る、建築を文学の味わいで語ることができる作家であるということだ。もちろん膨大な文学書を読破して作り上げられた建築観というものは間違いなくあるだろう。若山自身も「夏目漱石と小林秀雄と司馬遼太郎をよく読んできたので、文体の影響を受けている」と末尾の謝辞に書いている。

さて本著であるが、帯に建築家の隈研吾氏が「建築は、物だと思われることが多い。しかし、建築は物である以上に物語であるということを、著者は東京を例にして、証明した。」とある。内容はそのとおりの著である。東京の名建築の歴史を紐解いたかに見えるが、そうではない。建築の歴史を紐解くことは建築家であれば珍しいことではない。本著は建築史に留まらず、著者の優れた歴史観で貫かれている。さらに文学によって磨かれた名文が豊かな読み物として成立させている。

Ⅰ章「天皇の街」の「戦争は人を生む」は、著者の生い立ちに及んでいるが、優れた文学を読むようである。書き出しは「欧米では台湾のことを別名『Formosa』と呼ぶ。最初にポルトガルの船乗りがそう呼んだからで『美しい島』という意味だ。僕はその美しい島で生まれた。」そして後半の「戦争は人を殺すものだが、生みもする。」に続く。

建築に関する深い知識を核に優れた歴史観と文学の味わいを堪能する『寡黙なる饒舌』である。

13. 9月 2020 · September 12, 2020* Art Book for Stay Home / no.35 はコメントを受け付けていません · Categories: 日記

『とらわれない言葉』アンディ・ウォーホル、夏目大訳(青志社、2010年)

アートは好きだけれど、アートの本を読むのは嫌い。すごく当たり前のことだと思う。音楽は好きだけれど、音楽の本を読むのは嫌い。やはり当たり前のことだと思う。アートが楽しいことと、アートの本を読んで楽しいことは、歓びが異なる。脳の中で歓んでいるところがアート作品とアートの本では異なるからだ。このブログをときどき読んでくださって、「アートの本を読まなくては」と感じておられる方は、ここまで読んで「そうだアートの本なんて読まなくっていいのだ、私はアートが好き」と決断された方は、それも正解と思う。

だが、一冊だけ本著『とらわれない言葉』だけ読んでからにして欲しい。なぜ本著なのか、この本を読んだ歓びは、アートを観て歓んでいる脳と同じところが歓んでいるからだ。

本の編集は、右ページがウォーホルの言葉、解説はない。なぜないか、解説などいらないウォーホルの言葉だからである。左ページはウォーホルの作品、言葉と関連するものもあれば、そうでないものもある。つまり絵本のような編集になっている。本文は235ページあるが、1時間で読み終えるかもしれない。手元において、退屈な時間に濃いコーヒーでも入れて、好きなページを開くというのがお勧めの読み方、いや見方である。私はバーボンオンザロックだけれど。

私の気に入ったウォーホルの言葉を紹介する。「『あなたの一番好きなものは何?』って訊かれたことがある。その時からだよ、お金を描くようになったのは。」「僕は正方形の絵が好きなんだ。縦長や横長だといちいち決めなくちゃいけない、正方形ならそんなことは何もいらない。」「僕は完全に、うわべだけの人間だよ。」

この本をよめば、ポップアートって何か、とても良くわかる。そしてウォーホルの価値は唯一つ、ウォーホル自身がポップだということだ。

※ご案内=清須市はるひ美術館 高北幸矢館長アートトーク/9月26日(土)午後4時から5時「ポップアートの騎手、アンディ・ウォーホルの偉大なアメリカ。」美術館隣接ステージ控室、要予約(先約20名まで)

http://www.museum-kiyosu.jp/educational_program/arttalk.html

09. 9月 2020 · September 9, 2020* Art Book for Stay Home / no.34 はコメントを受け付けていません · Categories: 日記

『エコハビタ 環境創造都市』吉村元男(学芸出版社、1993年)

アートブックは、美術、芸術に関する本。美術史、美術評論、美術解説が主分野になるだろうという予測を立てて、その上で極力そこに縛られず広がりをもとうと考えてきた。美術史、美術評論、美術解説を研究執筆している方は、主に文学部出身である。もちろん芸術学部出身も多く、デザイン分野では工学部、農学部出身も多い。興味深いアートブックの紹介のためには、あらゆる分野にリンクしていきたい。本著者吉村元男も京都大学農学部出身である。

エコハビタ(ECOHABITAT)とはecology+habitat、人類居住のために一時的または永久的に建設された建造物を含む集落、ハビタットとは集落の意。本著では、環境問題が深刻化する中で、新たな環境創造に取り組む試みを紹介。エコロジー、テクノロジー、コスモロジーの3つの視点からの環境創造力、自然本来のダイナミズム・科学技術・感性の力をバランス良く駆使して未来の環境創造に向ける論理と実例を提示している。

自然・人間系の歴史を大きく3つに大別、第一は「自然従属型社会(狩猟社会)」、第二は「自然順応型社会(農業社会)」、第三は「自然征服型社会(工業社会)」としている。私たちは第三の「自然征服型社会」に生きているわけであるが、果たして征服ということが成立しているのであろうか。度重なる自然災害、気候変動、地球温暖化等、自然征服とは程遠い自然の猛威に屈服していると言える。そうした状況にあって、著者は第四の「自然創造型社会」を提案する。それは自然の征服によって失われた自然の再建である。

アートにおいては、膨大な作品のなかに、「自然征服型社会、地球環境悪化への警鐘」を観ることができる。しかし、デザインは現実である。提案が素晴らしい未来を引き寄せるか、虚しい未来を見せるか、近未来においてその結果が問われることになる。いや問われつつある。

02. 9月 2020 · September 2, 2020* Art Book for Stay Home / no.33 はコメントを受け付けていません · Categories: 日記

『余白の芸術』李禹煥(みすず書房、2000年)

2005年「李禹煥 余白の芸術」が横浜美術館で開催中に、NHK Eテレ「日曜美術館」で李禹煥が特集された。
本著『余白の芸術』表紙にも紹介されている一刷毛の絵がいきなり巨大キャンバスに描かれるシーン。
それだけで完成される極限のひと刷毛、テレビ映像は一切の音に沈黙させて李禹煥の刷毛を持つ手を追う。
描き終えるまで1分ほどだったろうか、果てしなく長い緊張が伝わってきた。
描き終えて、映像は李禹煥の顔、上半身、全体像へと引いていく。李禹煥の激しい呼吸が観ている私と一体化する。

翌週末、私は横浜美術館に向かった。日曜美術館で放映された作品をはじめ、そのシリーズが一室を埋めている。
単純な表現に見えて、深く、広く、長い、静かな時間が流れている。その表現時間に呼応するように長い時間をかけて鑑賞した。
李禹煥のメッセージ、「カンバスの上に一つの点を打つと、辺りの空気が動き出す。一筆のストローク、一個の石、一枚の鉄板は、外との対応において、漲る生きものとなり、物や空間が呼応し合って、鮮やかに響き渡る余白が生まれる。」以来私は李禹煥の虜になっている。

李禹煥は「もの派」の代表的な作家、この時点まではぶっきらぼうな名前の「もの派」に対して興味はなく、近づこうとは思わなかった。李禹煥から余白、余白から「もの派」、私の美の世界が拡大していく。

本著『余白の芸術』は横浜美術館ショップで求めたものである。
最初の一行は「アートは、詩であり批評でありそして超越的なものである。」一刷毛で完成する絵のような一文である。

26. 8月 2020 · August 26, 2020* Art Book for Stay Home / no.32 はコメントを受け付けていません · Categories: 日記

『普通のデザイン 日常に宿る美のかたち』内田繁(工作舎、2007年)

内田繁は日本を代表するインテリアデザイナー、2016年73歳で亡くなるまで20世紀の日本のデザインを牽引し、世界に紹介、21世紀の展望を示した。
そしてその展望の一つがこの『普通のデザイン 日常に宿る美のかたち』である。

牽引した20世紀の日本のデザインは、西欧型合理主義と資本主義の下、強さと巨大さに向かい、果てしなく欲望を刺激続ける大量生産と大量消費に給するものであった。
そこに異を唱え、新たなデザインの思想を築く必要があることを訴えている。

本著の中で最も共感するのは「弱さのデザイン」を考えなければならないとする主張である。
本来人間は強いものではなく、移ろいやすく、気まぐれで傷つきやすく、脆いものであり、そこに添ってこそデザインの本当のあるべき姿がある。

その上に立って「普通のデザイン」とは何かを考える。
「そもそもデザインとは普通でない特別なことを指すのではないか」「普通というテーマはデザインの主旨にはずれるのではないか」という疑問がある。
あまりにも過剰なデザインの氾濫が、都市環境、生活文化を侵している。刺激的な看板、広告、乱立する建築、けたたましい商業空間、はたまた生活空間においても工業製品や家庭用品、あまりにも雑多な食品や飲料、嗜好品とそのパッケージ。
すべてが資本主義のもと、デザインされて形が生み出されている。

多くのデザインが、便利、享楽、刺激を生み出し、それらがストレスとなって私たちの暮らしを蝕んでいく。
グローバルデザイン、ユニバーサルデザインが奪った繊細なもの、地域の風土、歴史、伝統に目を向け直し「普通、ノーマル、スタンダード」を見つけていかなければならないとする。

生前、内田さんとは大変親しくさせていただき、たくさんの議論を交わす機会を頂いた。私たち内田デザインファンは、20世紀を代表するカッコいい、刺激的なデザインに集まった者たちである。ガンに侵されて亡くなるまでの十余年、内田さんは、その反省を静かに語るピュアな思想家であった。

20. 8月 2020 · August 20, 2020* Art Book for Stay Home / no.31 はコメントを受け付けていません · Categories: 日記

『蔵書票の魅力 本を愛する人のために』樋田直人(丸善ライブラリー、1992年)

蔵書票とは、蔵書印を使う習慣のない西欧で、自分の名前を入れた小版画を作り、本の見返しに貼って蔵書であることを証したもの。
日本では明治期に入ってきて、広がった。とりわけ浮世絵から発展した多色刷りの日本の蔵書票は、世界的に愛好されている。本が貴重なものであり、本を愛する意識が非常に高い中で生まれてきた文化であり、芸術である。

美術館が美術鑑賞の基本となってしまった現代において、巨大な美術作品が鑑賞可能な美術館スケールが、大きな美術作品を優位にしている。特に現代美術では作品が肥大化している。
巨大な美術作品が魅力的であることは否定されることではないが、魅力的な小さな作品も存在することは当然否定されることではない。

巨大美術作品は、発想の段階で、美術であることが強く認識され、存在が許された時点で美術作品であることのパスポートを得るかのようだ。果たしてそうだろうか、公園や、街角に設置された屋外彫刻、あるいはパブリックモニュメントが時間の経過とともに色褪せて、撤去困難なことが存在し続ける理由になってはいないだろうか。ホールの壁画もまたその疑問に反論できるだろうか。

一方で小さな蔵書票は、美術作品であることを全く背負ってはいない。しかし一点一点に美意識への思いは限りない。
星の数ほど作られた蔵書票の中で生き残る美、結果としての美術、それは浮世絵が歩んだ美でもある。

16. 8月 2020 · August 16, 2020* Art Book for Stay Home / no.30 はコメントを受け付けていません · Categories: 日記

『京都、唐紙屋長右衛門の手仕事』千田堅吉(生活人新書、2005年)

唐紙をご存知だろうか。
唐紙とは、中国から渡来した紙、ならびにそれを真似て造った紙をいう。
平安時代には書道や手紙など、貴族によって用いられた。中世ごろからは、主に襖のための加工紙の一種として用いられる。
本著では、京唐紙について「唐長」十一代当主、千田堅吉によって紹介されている。

天保10年(1839)頃京都に存在した唐紙屋は13軒あった。その多くは元治元年(1864)の蛤御門の変の「鉄砲焼け」で板木(はんぎ)を焼失したが、唐長は戦乱の火災から奇跡的に板木を守り抜く。数々の戦乱、天災など苦難を経て明治時代以後、人々の暮らしの変化に伴い唐長以外の唐紙屋は全て廃業。
江戸時代より途絶えることなく代々続いてきた唐紙屋は日本でただ1軒である。
ひとつひとつ手仕事で、代々受け継がれた板木の文様を和紙に写し取り、襖紙や壁紙として桂離宮、二条城、養源院などの歴史的建造物や、現代の人々の暮らしにおいても唐長の唐紙は用いられている。

技法的にわかりやすく言えば、和紙に木版画刷りの壁紙、襖紙ということである。
しかしその違いを一部紹介すると、木版画の場合は「版木」、唐紙の場合は「板木」の字を使う、読み方は「はんぎ」で同じ。また板木に和紙をあてる柄(がら)をつける技法は、木版画では「型刷り」、唐紙では「型押し」と呼ばれる。さらに版木に絵の具を刷毛で付けるのが木版画であるが、唐紙は「ふるい」で板木に絵の具をのせる。
こういう技法が歴史的建造物の保存に欠かすことができない。

唐紙に欠かすことのできない板木は、代々受け継いできたものが650枚、うち300枚が江戸時代に彫られたものであるという。
模様は多様であるが、伝統的な唐紙として無地感覚のものがある。一見紙の色のみで模様がないように見えるが、光が当たると淡く銀色に輝き、影になると黒く模様が浮かび上がる。これは紙に雲母(きら)を押したものである。室内に品よく存在し。ときに華やかな演出を創出する。

2006年にこの本を読み終えて、現物を観たくて京都の北に位置する唐長修学院工房を訪れた。見学者に公開されていて、板木をはじめ貴重な道具、壁紙を拝見した。

2012年、古川美術館分館爲三郎記念館で個展を開催させていただくことになった。
記念館は、初代館長故古川爲三郎の住まいで、没後、爲三郎の「わたくしが大好きなこの住まいを、みなさんの憩いの場として使っていただきたい」という遺志を受けて開館となったもの。
様々な展示に使用されてきたが、私の個展計画ため記念館をゆっくりと拝見すると、襖は唐長のものであることを知った。もちろん記念館を訪れる人には誰もが観ることができるのだが、雲母唐長は大変気づきにくい。
訪れる機会があったら、ぜひゆっくりと楽しんでいただきたい。
そうそう、夏の間は襖から簾戸に変わるので観ることができない、ご注意。

 

 

13. 8月 2020 · August 13, 2020* Art Book for Stay Home / no.29 はコメントを受け付けていません · Categories: 日記

『超芸術 トマソン』赤瀬川原平(ちくま文庫、1987年)
『トマソン 大図鑑 無の巻』赤瀬川原平編(ちくま文庫、1996年)
『トマソン 大図鑑 空の巻』赤瀬川原平編(ちくま文庫、1996年)

赤瀬川原平が大好きである。正確には赤瀬川原平の書く本が大好きである。
赤瀬川原平の作品はどうかというと《宇宙の缶詰》以外はあまり好きではない。

269編・著書のうち30冊ほど読んでいる。そもそもアーティストでありながら269冊は多すぎるだろう。作品を造っている時間を著作に奪ってしまったとしか言いようがない。
尾辻克彦のペンネームで書いた『父が消えた』で芥川賞受賞。芥川賞作家としてはこの著作量は申し分ない。いずれにしても赤瀬川原平から生まれでたもの、美術だろうが文学だろうが素晴らしいことだと思う。

このトマソン3冊は、中でも極めて優れている。
現代美術作家で、現代美術とは何かを考え続けてきたが故に生まれたのが「トマソン」である。

「超芸術トマソン」とは、これまでになかった造形物の概念。
地面や建物等の不動産に付属し、まるで展示されているかのように美しい、あるいはおもしろい無用の長物。存在がまるで芸術のようでありながら、その役にたたなさ・非実用において芸術よりももっと芸術らしい物を「超芸術」と呼び、その中でも不動産に属するものを「トマソン」と呼ぶ。その中には、かつては役に立っていたものもあるし、そもそも作った意図が分からないものもある。「超芸術」を「超芸術」だと思って作る者(作家)はなく、ただ鑑賞する者だけに存在する。トマソンの語源については本著の読者の楽しみとする。

私はこの「超芸術」という言葉を初めて見たとき、「芸術を超える」という解釈ではなく、「現代美術を超える」と理解した。現代美術が社会的に認知されていなければ、「超芸術」は存在しない。そしてその象徴的な作品がマルセル・デュシャンの《泉》(1917年)であると思う。作者が造ることを放棄するレディメイドという考え方、それを超えるには作者が存在しないトマソンしかない。

赤瀬川原平らは、このトマソンを路上観察学や考現学と関連付けて語ることが多かったが、その名の通り芸術として強く位置づけるべきであったと思う。