17. 1月 2023 · January 17, 2023* Art Book for Stay Home / no.110 はコメントを受け付けていません · Categories: 日記

『既にそこにあるもの』大竹伸朗(新潮社、1999年)

大竹伸朗の肩書は、現代美術作家、あるいは画家。武蔵野美術大学油絵科を卒業し、ひたすら作品を作り続けている。油絵科卒業なので、画家であるがいわゆる額縁で縁取られた油絵は全くない。油絵の具も使うが、他の絵の具やペンキも使う。キャンバスを使うが、多くはありとあらゆるものに描く、それが立体物、あるいは「既にそこにあるもの」、印刷物や看板、平面に限らず立体的なものも多い。写真だけでなく、映像もあればネオンのような発光体もある。いわゆる美術作品という概念からムチャクチャはみ出している。そういうものをなんとか呼ぼうとするならば現代美術しかないだろう。

大竹伸朗のことを現代美術作家ととりあえず呼ぼう。しかし、バンドのメンバーであり、6枚のCDをリリースしている。もちろんコンサートも行う。また東京アートディレクターズクラブADCグランプリ、ニューヨークADC国際展優秀賞、ロットリングイラストコンペ一等賞などデザインや絵本での受賞歴も多い。その領域にタブーはない。大竹自身の興味が喚起されるところ、あらゆるところにアメーバーのごとく繁殖してゆく。

そしてこのエッセイ、イメージ豊かな語彙と確かな文章力、作品から一見受けるものとは大きく異なっている。いや作品表面から受けるイメージというのは、直感的には正解なのだろうが、そのもう一つ奥にあるものを観たいものである。本著はそういった大竹のスピリットと制作現場に立ち会う一冊だ。

15年ほど前、学長を務めていた名古屋造形大学の卒展記念講演で大竹を呼んだ。同行していた多くの時間、口数が少なく、常に何かを見つめ、何かを思考しているといった具合であった。本著を読んでそのとき脳内で何が起きていたのか解る気がした。

11. 1月 2023 · January 11, 2023* Art Book for Stay Home / no.109 はコメントを受け付けていません · Categories: 日記

『芸術のパトロンたち』高階秀爾(岩波新書、1997年)

芸術創造の長い歴史のうえで芸術の保護者たるパトロンの果たした役割は大きい。富と権力を誇るルネッサンスの王侯貴族や教会、新興の近代市民階級、コレクターや画商、現代の政府・企業。 彼らは芸術のあり方にどんな影響を与えたのか? 美術館や展覧会が登場した意味とは? 社会的・経済的担い手とのかかわりに光をあてるユニークな美術史。(表紙カバーより)

美術史家として、美術史が美術のためにあるのではなく、社会史の中に存在することを多くの自著で語ってきた高階秀爾名著の一冊。画家や彫刻家は、今でいう芸術家である前にかつては全てが職人であり、芸術家という認識がいつどのような状況から生まれてきたのか。芸術家と呼ばれる現代においても、王侯や貴族が市民に置き換えられたに過ぎず、その市民は決して一般市民ではなく美術を生業とする市民、美術を愛する市民のことである。絵画や彫刻、あるいは現代美術においても作品が発表され、評価を受け、流通(美術館に収蔵されることも含めて)していくことは、パトロンの存在なくしてはありえないのである。

私はデザインから学びをスタートし、デザイナーとして50年、アーティストとして20年、そうした体験で見積もりからスタートするデザインと、常に評価や評価格とともにあるアートは極めて類似の構造を有していると考えている。ただデザインには絶対的な用の役割があり、用の賞味期限(例えばポスター)があるということである。

アーティストがパトロンに服従するという構造の中でも歴史的名画は誕生する、パトロンがなければその名画は生まれていない。多くの現代美術が脱パトロンを試み、美術品という流通価格から逃れたとしても、必ず記録されその評価、保存が行われる。そこには新たなパトロンの存在なくしては残ることができない。

本著は美術史にみる美術を楽しむ大きな手引になるとともに、美術の変遷がいかにパトロンの変遷によるものかが見えてくる。そしてそれは現代も継続されている。

 

27. 12月 2022 · December 27, 2022* Art Book for Stay Home / no.108 はコメントを受け付けていません · Categories: 日記

『中部美術縁起』馬場駿吉編(風媒社、2022年)

「本書は『中部美術縁起』というタイトルの下に、2018年(平成30年)4月から2020年(令和2年) 3月まで、ほぼ2年間にわたって中日新聞夕刊(祝日等の休刊日を除く金曜日)に連載された論説を集約し一冊としたものである。 執筆者は中日新聞編集局文化部で選ばれた美術にかかわる様々な領域の学識者、作家など16名がリレー執筆するという形式で進められた。そのうち1名の方が、個人的理由で辞退された(略)」編者あとがきより。

 執筆者は誰か、本著の魅力と深く関わるものなので、所属・肩書(執筆当時)もそのまま転載する。馬場駿吉(美術評論家・元名古屋ボストン美術館館長)、 拝戸雅彦(愛知県美術館企画業務課長)、栗田秀法(名古屋大学大学院教授)、 高橋綾子(美術評論家・名古屋造形大学教授)、 中山真一(名古屋画廊社長)、 佐藤一信(愛知県陶磁美術館学芸課長)、 笠木日南子(アートコーディネーター)、武藤隆(建築家)、島敦彦(金沢21世紀美術館館長)、岡本光博(美術家)、 小田原のどか(彫刻家)、 ホンマエリ(美術家(アートユニット キュンチョメ))、田中功起(美術家)、小泉明郎(美術家)、 副田一穂(愛知県美術館学芸員)※執筆順。

馬場から佐藤までは「豊かな地域文化展望として」という副題があり、作品が誕生し育まれ、作家が活動する場に主に焦点が当てられている。画廊や美術館、教育現場を通して、全て中部地域における実名施設、実名作家での論考は、私などリアルに現場を観てきた者にとっては極めて興味深い。もちろん観ることが叶わなかった部分が殆どであり、知識の層に厚みをもたせてくれる。中でも「公共空間と芸術」についての高橋の論説は、多視点に立っての冴えた文章力が一際楽しく読むことができた。

笠木日南子から小泉明郎までは、当時開催されていた「あいちトリエンナーレ2019」における「表現の不自由展・その後」に関わってのものである。読者としては展開が急にタイムスリップしたかのように現代に押し出される。しかし、本著は新聞連載の論説である、国内芸術祭最大の問題を無視して新聞というジャーナリズムはありえない。8人の執筆者は騒動の中、全くたじろぐことなく書き切っている。少し視点の異なる小田原の「津田大介芸術監督による招聘作家男女同数の実現」についての論説は、私自身が強く関心を持っていたこともあって、その的確な指摘に感銘を受けた。

最後に副田の「美術を記録する」は、本著『中部美術縁起』に収められていることに違和感を覚えた。美術館学芸員ならではの作品保存、紹介、記録等、赤裸々にレポートされている。そのことは『中部美術縁起』から離れて、なお美術作品、美術活動、美術教育において極めて重要なことであり、ぜひ別著として成就していただきたいものである。

「15名による新聞連載の集約を一冊の著書に」は、読者を戸惑わせる事が多かったが、中部美術過去現在未来という点で貴重な集積となっている。

16. 12月 2022 · December 16, 2022* Art Book for Stay Home / no.107 はコメントを受け付けていません · Categories: 日記

『増補版 ゲルハルト・リヒター 写真論/絵画論』ゲルハルト・リヒターほか、清水穣訳(淡交社、2005年)

増補版とあるように、本著は1996年に原著”Gerhard Richte Texte:Schriften und Interviews.“の抜粋訳として出版されたものに増補されたものである。9ページから16ページに渡って、本著に関わるリヒターの重要な作品をカラーで紹介。25ページからは第一章「INTERVIEWS 19721993」として、リヒターへ6人のインタビュー。インタビュアは美術史家、美術ジャーナリスト、美学者、美術評論家、キュレーターの論客である。139ページからは増補版として第二章「INTERVIEWS 20012005」、更に4人の論客のインタビュー。233ページから「NOTES 19621992」としてリヒターのエッセイが綴られている。

リヒターについて、多くのインタビュアがキーワードにしているのは、その作品の多様性である。画家(リヒターは自らを画家とする)リヒターのスタイルが固定されないことだ。90歳という長命の作家がピカソのように多様なスタイルを持つことは理解されるが、ピカソの場合、「青の時代」「薔薇の時代」「キュビスム」「アニミズム」と時系列される。リヒターは、フォトペインティング、グレイペインティング、アブストラクトペインティング、カラーチャート、ガラスなど多岐に渡り、かつ時系列ではない。そこにインタビュアは戸惑い、その理由を求める。リヒターは飄々として「そうかも知れないし、そうでないかも知れない、それは両方とも私である」とする。強く主体的であることを拒むかのようだ。

リヒターにとって、造形的スタイルは結果としてあるものであり、追求すべき価値ではない。大切なことは「絵画とはなにか、絵画に何ができるのか、絵画の未来の可能性」である。「見る」こととはどういったことなのか、多くの画家達が当然のこととしてきた絵画の常識を突き放し、新たな絵画を提示し続ける。そこに大きく関わって写真がある、写真論/絵画論は別々のものではなく、一体であり、混然としたものである。

29. 11月 2022 · November 28, 2022* Art Book for Stay Home / no.106 はコメントを受け付けていません · Categories: 日記

『女の子のための現代アート入門 MOTコレクションを中心に』長谷川祐子(淡交社、2010年)

バス待ちの30分、近くに大きな書店があると嬉しい。たいていは美術書コーナーへ、立ち読みも楽しいし、思いがけず購入書が見つかると充実の待ち時間となる。

そのような機会に、この強烈なオペラピンクの表紙は嫌が上でも目に入り、手にとってしまった。『女の子のための・・・』の書名に嫌悪が走る。大人の女性に対して「女の子」という呼び方は嫌いだ。「女の子」と呼ぶべきは小学生までだろう。本著は『・・・現代アート入門』である。作品写真は多く掲載されてはいるが、文章は美術専門用語が多く、外国語も多く使われている。決して低年齢層のために書かれたものではない。つまりここで使われている「女の子」は「若い女性」のことであるのだろう。近年は中高年の男女とも若い女性に「女の子」という呼称を使う。また若い女性たち自身も自ら「女の子」を使う。使う場所、使い方によってはセクシャルハラスメントと判断されるものである。自ら「女の子」を使うのはそこに幼い自分を認識し、幼い自分でありたいという甘えの構造があると思える。

本書『女の子のための現代アート」は、そうした女性たちに向けてつけられた書名であると思われる。しかし内容は「現代アート入門書」であって、決してそのような志向で書かれたものではない。穿った見方だが、「現代アート入門書」を書いた後で、この方向性が被せられたのではないかと思える。サブタイトル「MOTコレクションを中心に」は、著者長谷川祐子がMOT(東京都現代美術館)チーフキュレーター時代(現在は金沢21世紀美術館館長)に書かれたがゆえのものであって、MOTのミュージアムショップに並べられることを前提としたものだろう。

15. 11月 2022 · November 15, 2022* Art Book for Stay Home / no.105 はコメントを受け付けていません · Categories: 日記

『日本流 なぜカナリヤは歌を忘れたか』松岡正剛(朝日新聞社、2000年)

著名と著者に惹かれて、発売後すぐ購入し読んだ。22年前、50歳のときである。改めて読んでみた。相当数の傍線が引いてあるのに、殆ど記憶がない。20余年の成長なのか、忘却なのか、おかげで楽しく読むことができた。

このブログでArt Bookと定義しているのは、相当に幅が広い。本著は創造の源、創造のよりどころである。美術表現を行おうとする場合、いくらデッサンを積み上げても絵はかけない。デッサンは手段であって何を描きたいのかの源を鍛えるものではないからだ。究極的にデッサンを続けることで創造の源が刺激され、何を描きたいかが見えてくるという考えもあるが、それはデッサン至上主義の論であり、多くの場合そうではない。例えば現代美術作家として活躍する奈良美智は、愛知県立芸術大学の学生であった頃、「殆ど大学には行かずロックばかり聴いていた。あの頃の僕が今を支えている。」と語る。「創造の源は美術訓練からはやって来ない」というのが私の論である。

さて本著「日本流」は、「日本らしさ」「日本風」「日本的」など私たちが日本と呼ぶものは一体何なのか、という問いにあらゆる角度、分野から答えている。

著名に添えられている「なぜカナリヤは歌を忘れたか」は、大正時代日本で最初に歌われた童謡「カナリヤ」である。残酷とも言える悲しい歌をなぜ子どもたちに歌わせなければならなかったのか。「十五夜お月さん」「雨」「七つの子」「赤い靴」「青い眼のお人形」と悲しい童謡が紹介される。私たちはなぜ悲しいものに日本を想うのか。

本著では他に「多様で一途」「職人とネットワーカー」「仕組みと趣向」「江戸の見立て」「日本に祭るおもかげとうつろい」「日本と遊ぶ」「間と型」など、「ああそういうところに日本ってあるよね」という指摘が膨大な事例をもとに説明される。

松岡正剛の全時代、グローバルな文化、あらゆる領域を持って「危うい日本的なもの」を改めて考えてみると、「日本画は何を描くべきなのか」「日本における洋画とは何なのか」「おきものと彫刻はどう違うのか」「新しきデザインと古き民藝の価値の見方はどう異なるのか」・・・アートにおける様々な問題が提示されてくる。

80歳になったらもう一度読んでみたい本である。

26. 10月 2022 · October 26, 2022* Art Book for Stay Home / no.104 はコメントを受け付けていません · Categories: 日記

『現代アート事典』美術手帖編(美術出版社、2009年)

 

この本は読んでも良いし、調べて事典として使うもよし、とある。だが読むにはしんどい本である。やはり現代美術独特の難しい言い回しが多く、21人の執筆者の充分な相互コミュニケーションがなされているとは思えない。それぞれが得意なところを執筆し第三者が編集したのだろう。一般に事典というのはそういうものである。

私は、2021年度に愛知県立瀬戸工科高校専攻科で「現代美術」の講義を担当することになり、自分と学生のためにテキストを作成した。テキストは29回をテーマ別に分け、図版と文章で構成した。その資料として5冊の著書とインターネットを使用した。5冊の著書の中で最も多く利用したのが本著である。さすが美術出版社である。第一に網羅されている領域が広く、大項目とその概要、さらに小項目とその説明、小項目には関係する出来事や作家を取り上げている。

現代美術においては概要そのものが難しい。先ず現代美術はいつから始まったのか、現代美術とはそもそもどう定義するのか、互いに関係しあい、重なっている項目をどう整理するのか。その点において本著は比較的よく整理されていると言える。

現代美術という言い方でさえ、モダンアート、コンテンポラリーアートという呼び方があり、前衛芸術という捉え方も重なってくる。

私は一つのテーマについてテキストを作る場合、例えば抽象美術では、抽象表現主義、アクションペインティング、ミニマル・アート、オプティカルアート等を調べ、その始まりはいつどのようなものであったのか、またどのように終息し変容していったのかという整理を行う。内容がボリュームオーバーになる場合には2回に分けてテキストを作った。また全てのテキスト別にパワーポイントを作成、サンプル作品を多く紹介した。その場合でも本著は、作家名、作品名を具体的に多く紹介しており、他著やインターネットを併用しやすかった。デスクの側にぜひ置きたい一冊である。

10. 10月 2022 · October 10 , 2022* Art Book for Stay Home / no.103 はコメントを受け付けていません · Categories: 日記

『時の震え』李禹煥(小沢書店、1990年)

本書の初版は1988年に刊行されているので、著者52歳の執筆であり、それ以前に書かれたエッセイや論説をまとめたものである。著者は韓国に生まれ、儒教色の強い家柄で、幼年期を通して詩、書、画を学んでいる。20歳のときにソウル大学校美術大学を中退来日、1961年日本大学文学部哲学科を卒業している。本著が堪能な日本語で書かれているのは、著者の個人的能力はもちろんのこと、教育を受けた時代がハングル語に加えて、漢字を学ぶことが必修であったことも含まれていると思われる。テレビ等で語る著者の日本語のナチュラルさは、多くの人の知るところである。

もの派として知られる著者の作品のイメージからは、ストイックなキャラクターが想像されるが、韓国料理、日本料理、フランス料理など料理を好むグルメである。フォアグラが何度も登場するなど意外性に満ちている。また美人の登場回数も多く、酒、煙草をかなり嗜み、妻子のある一般的な家庭である。

語られるアートは多くはないが、それ故むしろ日常の生態が大変興味深い。例えば、AとBの選択がある場合、Aに対しての反論があり、返す刀でBに対しての反論がある。第三の説を強く主張するのかと思えば、そこは主張ではなく、自らの曖昧さを恥じ、愛するといった小心である。常に虚空を追う癖が見て取れる。

銀座の画廊で精力的に個展を開催し、久しぶりに無償で借りているアトリエに戻ったら、制作中のものを含めてそれまでの作品、画材や道具、がなくなっている、アトリエそのものが消えていた。詳細は本著を読む興味としてここでは書かないが、その「釣竿を求めて」のエッセイは著者の能力、非能力を象徴しておもしろい。笑える話ではないが、このできごとがその後の現代美術作家李禹煥を完成させて行くのではないかと私は思える。

一般に重要なことを軽く捉える姿勢、一方で何でもなさそうなことを深く捉えこだわり続ける執念深さは、李朝の白磁のような澄みきりと、壁の隅に見つけた小さな黴を気にし続けることのようだ。

02. 10月 2022 · October 1, 2022* Art Book for Stay Home / no.102 はコメントを受け付けていません · Categories: 日記

『VOGUE ON  ココ・シャネル』ブロンウィン・コスグレーヴ、鈴木宏子翻訳(ガイアブックス、2013年)

書名の通り、「VOGUE誌に掲載されたココ・シャネルの物語」である。VOGUE誌はハイファッションの最先端を行く雑誌のひとつ、掲載商品の貸し出し元にも欧州の名門ファッションブランドが軒並み名を連ねる。世界各国で出版されている。日本ではVOGUE JAPANと称し、毎月発売されている。1892年より発行されており、ココ・シャネルの活躍した2000年代がそのままVOGUE誌に取り上げられていることになる。

そのVOGUE誌に掲載されたココ・シャネルのデザインスケッチ、写真、またココ・シャネル自身のポートフォリオとともに、彼女の言葉を紡ぎながら物語が書かれている。

スキャンダルの極めて多いココ・シャネルに関しての伝記は多く、彼女自身も取材に対して心地よく応じていた。それはややもするとスターとしてのココ・シャネルが過剰に描かれており、ファッションデザイナーココ・シャネルを見失いがちである。本書はVOGUEの名を冠しているようにファッションデザイナーとしての魅力に忠実である。VOGUE誌がココ・シャネルによってその売上を大きく伸ばした事実に基づいて、ココ・シャネルもまたVOGUE誌によって大きく知名度を上げ羽ばたいていったことが想像される。

本書は書籍であるが、ファッション雑誌を楽しむように読むことができる。ココ・シャネルファンでなくとも20世紀のファッション文化に興味のある人たちすべてに書かれたと言えるだろう。

21. 9月 2022 · September 21, 2022* Art Book for Stay Home / no.101 はコメントを受け付けていません · Categories: 日記

『青木繁と坂本繁二郎』松本清張(新潮社、1982年)

松本清張は『或る「小倉日記」伝』で芥川賞受賞、代表作に『点と線』『眼の壁』『砂の器』『火の路』など、古代から歴史もの、現代小説、推理小説、社会派小説などその領域は極めて広く、かつ重厚な小説家である。さらに美術をテーマとしたものが何冊かあり、本著もその一冊である。

青木繁と坂本繁二郎は、ともに現在の福岡県久留米市に同年に生まれ、同じ高等小学校で学び、同じ洋画塾で画家を志し、東京美術学校(現東京藝術大学)に学んだ。青木は在学中より華々しいデビューを果たし、《海の幸》を代表として天才と称されるも晩年は貧困と病の中、九州各地を放浪し、28歳という短い生涯を終えた。一方坂本は数年遅れてデビュー、パリ留学後は、福岡へ戻り、87歳で亡くなるまで長きにわたって、馬、静物、月などを題材にこつこつと制作に励んだ。

本著は二人の関係、人生を追いながら、二人の代表的な研究者河北倫明をはじめとする多くの著述を紐解き、的確な美術評論を展開している。夏目漱石がそうであったように、小説家の美術評論は奥が深く、なお秀逸な文章力は読者を強く惹き込んでいく。破天荒で天才的な青木は、愛人福田たねを伴って壮絶な物語を描いていく。そして本著の7割を過ぎたあたりで、坂本に話が変わる。しかし坂本を主人公にしたここからが本著の真骨頂であり、推理力を含めて圧倒的におもしろい。青木の陽に対して坂本の陰は、生涯において背負った重い運命であった。坂本もまた多くの言葉を残しているが、その殆どが青木を意識したものであり、考えそのものの奥に青木の大きな存在がある。画家青木繁がいなかったとしたら画家坂本繁二郎もまた存在しなかったに違いない。

松本清張は、ほかに『天才画の女』『岸田劉生晩景』があり、美術と美術家に対する深く鋭い洞察力は、美術評論家とは異なる人間を見る力に溢れている。