15. 11月 2022 · November 15, 2022* Art Book for Stay Home / no.105 はコメントを受け付けていません · Categories: 日記

『日本流 なぜカナリヤは歌を忘れたか』松岡正剛(朝日新聞社、2000年)

著名と著者に惹かれて、発売後すぐ購入し読んだ。22年前、50歳のときである。改めて読んでみた。相当数の傍線が引いてあるのに、殆ど記憶がない。20余年の成長なのか、忘却なのか、おかげで楽しく読むことができた。

このブログでArt Bookと定義しているのは、相当に幅が広い。本著は創造の源、創造のよりどころである。美術表現を行おうとする場合、いくらデッサンを積み上げても絵はかけない。デッサンは手段であって何を描きたいのかの源を鍛えるものではないからだ。究極的にデッサンを続けることで創造の源が刺激され、何を描きたいかが見えてくるという考えもあるが、それはデッサン至上主義の論であり、多くの場合そうではない。例えば現代美術作家として活躍する奈良美智は、愛知県立芸術大学の学生であった頃、「殆ど大学には行かずロックばかり聴いていた。あの頃の僕が今を支えている。」と語る。「創造の源は美術訓練からはやって来ない」というのが私の論である。

さて本著「日本流」は、「日本らしさ」「日本風」「日本的」など私たちが日本と呼ぶものは一体何なのか、という問いにあらゆる角度、分野から答えている。

著名に添えられている「なぜカナリヤは歌を忘れたか」は、大正時代日本で最初に歌われた童謡「カナリヤ」である。残酷とも言える悲しい歌をなぜ子どもたちに歌わせなければならなかったのか。「十五夜お月さん」「雨」「七つの子」「赤い靴」「青い眼のお人形」と悲しい童謡が紹介される。私たちはなぜ悲しいものに日本を想うのか。

本著では他に「多様で一途」「職人とネットワーカー」「仕組みと趣向」「江戸の見立て」「日本に祭るおもかげとうつろい」「日本と遊ぶ」「間と型」など、「ああそういうところに日本ってあるよね」という指摘が膨大な事例をもとに説明される。

松岡正剛の全時代、グローバルな文化、あらゆる領域を持って「危うい日本的なもの」を改めて考えてみると、「日本画は何を描くべきなのか」「日本における洋画とは何なのか」「おきものと彫刻はどう違うのか」「新しきデザインと古き民藝の価値の見方はどう異なるのか」・・・アートにおける様々な問題が提示されてくる。

80歳になったらもう一度読んでみたい本である。