09. 8月 2018 · August7, 2018* 「ピカソ!いったい何が天才なのか」ピカソの天才性について考えてみた。 はコメントを受け付けていません · Categories: 日記
8月5日、名古屋市千種区今池のアート倶楽部[カルチェラタン]で、芸術を巡る物語「ピカソ!いったい何が天才なのか」というテーマで講演。
ピカソといえば、「天才ピカソ」と言うくらいあたりまえになっている。
2年前、愛知県美術館で開催された展覧会名の「ピカソ、天才の秘密」というように天才を前提としたものだ。
果たしてピカソは本当に天才なのか。天才としたら何が天才なのか。その理由は何か。
私は、「ピカソは天才ではない」という仮説で考えてみた。
理由は、天才が併せ持つ狂気は全く見当たらず、何の努力もなしにフッと名作が生まれるといった状況では決してないからである。
画風が何度も変化してきたことは、ピカソの追求の苦悩の形と言える。
代表作のゲルニカは誰もが認める名作であるが、その膨大な習作の中身は天才の姿ではない。
代名詞となるキュビスムに至ってもブラックとの共同研究である。
うまくいかないから何枚も何枚も描く。
8歳で描いたデッサンは超人的なものだが、ピカソはそこに満たされたわけではなく、そこを評価されることはむしろ拒否すべき点であったろうと考えられる。
飽くなき追求の結果として、14万点を超えるピカソ作品は、天才を裏付けるものではない実証物件。
しかし、「天才ピカソ」はピカソ自身が求めたものであり、世界一多作で、総額世界一高額で、世界一有名なピカソは誰もが天才と認めた。
そしてピカソは天才ではなく、「ピカソは天才になった」と思う。
05. 8月 2018 · August 5, 2018* 「第33回 風景の会 絵画展ー瀬戸を描くー」瀬戸はやきものの土の風景。 はコメントを受け付けていません · Categories: 日記
東海地方、第一線で活躍する洋画家、日本画家、版画家が会派を越えて風景を描き、発表し続けている。
今年で33年目。
今年は瀬戸市がテーマ。
山、川、町、多面的な瀬戸であるが、全貌すると焼きものの土の匂いが大地の力となった風景だ。
8月7日まで、松坂屋名古屋展本館美術画廊。
02. 8月 2018 · August 1, 2018* 「サヴィニャック パリにかけたポスターの魔法」ポスターコレクションの底力。 はコメントを受け付けていません · Categories: 日記
猛暑の中、三重県立美術館で開催中の「サヴィニャック展」に行ってきた。
8月の館長アートトークの準備でもある。
入口の看板から、展示会場への案内、ロビーのSNS用エンターテイメントなど、サヴィニャックのキャラクターをうまく使って迎えてくれる。サヴィニャックマジックに包まれる楽しさだ。
サヴィニャックは20世後半のフランスのグラフィックデザイナーであるが、原画、リトグラフによるポスター、ポスターの掲示風景写真と完璧にコレクションされている。さすが芸術の国フランスである。
日本でもサヴィニャックと同評価の世界的グラフィックデザイナーは数十人レベルでいるが、これほどきちんと保存記録されていることはない。
ポスターコレクションそのものが、富山県美術館をはじめとするわずかの美術館でしかない。
それはともかく、「サヴィニャック展」は素晴らしかった。
ポスターの訴求力、街に掲示されることを前提とした楽しさ、明るさ、幸せさのすべてがアイデア、ユーモアに込められている。
31. 7月 2018 · July 30, 2018*  極小美術館の2つの個展。 はコメントを受け付けていません · Categories: 日記

岐阜池田町の極小美術館へ、現在開催中の「加藤由朗展」「南谷富貴展」を観てきました。

「加藤由朗展」

グラフィックデザイナーとして50年、加藤さんのコンセプトの力強さは変わらず、凄い。

デザインの大きな力はアイデア。そしてそれをヴィジュアル化するセンス。単体としては1枚のポスター、個展会場ではそれらが群れのパワーとなって迫ってくる。

 

「南谷富貴展」

木片ブロックでインスタレーションを展開している南谷さんは、今展ではひび割れた木材から採取、ブロックに委ねる形が魅力的。

「ブロックを塗装していると、ずっとピシッ ピシッって音がし続けている」という話が印象的だった。

自然からのラストメッセージを身体でキャッチしながら制作している。自然への敬意と自らの造形が美しいセッションを奏でている。

  

9/2まで、観覧無料。
必ず予約の電話090−5853−3766を。
28. 7月 2018 · July 28, 2018*  印象派を堪能する展覧会。 はコメントを受け付けていません · Categories: 日記
7/28より「至上の印象派展 ビュールレ・コレクション」が‬名古屋市美術館で始まりました。
昨日、レセプション内覧会に参加してきました。
多くの人が詰めかけ会期中の人気が予想される状況、‪印象派好きにはたまらない展覧会です。
撮影可のモネの「睡蓮」、コスプレコーナーなどに人が集まっていました。
私は、ブラックの「ヴァイオリニスト」‬ドガの「14歳の小さな踊り子」に感動でした。
‪9/24まで。‬
26. 7月 2018 · July 26, 2018*  美術館前の花壇も作品のように。 はコメントを受け付けていません · Categories: 展覧会
「元永定正展」が始まって、2週間になろうとしている。
猛暑の夏、さすがに昼間のお客様は少ない。
そんな中、シルバー人材センター様のご協力で美術館の花壇に新しい花が植えられた。猛暑で弱っていた花壇がよみがえるように美しくなった。
花は、マリーゴールド、ペンタス、日々草。まるで元永定正作品のように楽しい。
「元永定正展」は、午前10時から午後7時まで。涼しくなってからお出かけください。
会期は9月30日まで、展覧会の看板とかわいい花を合わせての記念写真も楽しいです。
28. 6月 2017 · June 28, 2017* 昔はピンクなんて言わずに「ももいろ」と呼んでいた。 はコメントを受け付けていません · Categories: 未分類

クレパスは「ももいろ」だった。なぜ「ももいろ」は使われなくなったんだろう。英語が氾濫したということもある。しかし、青い、赤い、黒い、白いなど形容詞になる基本の色は、英語化の頻度は低い。多くの色の中で、「ももいろ」の発音は重くて籠る。「ピンク」は弾ける発音で、耳障りが良い。かわいい色のNo.1とピンクの発音のかわいさが、ピッタリきている。

一方で、桃色は桃の花の色(桜色も桜の花の色)というように、具体的な色を表している。ピンクは赤と白の間の幅広い色として呼ぶことができるので、とても使い勝手が良い。幅広いピンクのイメージを限定するためには、コーラル(珊瑚)ピンク、サーモン(鮭)ピンク、チェリー(桜)ピンク、そのほかベビーピンク、ショッキングピンク、ダスティ(濁った)ピンクがある。

残念ながら、日本色名に幅広いピンクに該当するものがない。

(絵:サノエミコ)

 

 

21. 6月 2017 · June 21, 2017* 人は言葉で深く考える、考える力は品格と生きる力を生む。 はコメントを受け付けていません · Categories: 未分類

6月18日(日)中部ペンクラブ主催による辻原登公開文学講演会が開かれ、聴講した。幅広い博学の中から「文学とは何か」「文学の責任とは何か」を語られた。講演を聴いて考えたこと。

最近の国会を見ていると、言葉の使われ方が異常に乱れている。質問と答弁が呼応していないばかりではなく、文脈が成り立っていない、言葉の使い方が間違っている、更には読めない。国会発言で読めないというのは、発言内容が自作ではないということの暴露で、そういうところからも品格の無さが露呈する。

長く美術教育の職にあったが、学生たちが絵のタイトルを「無題」ときどることが増えてきた。理由を問えば「私の想いは言葉にできるものではないから絵を描いている。題に惑わされて絵を見てほしくない」という。一見もっともらしい。しかし、そういう学生の多くは何を描きたいか追求することが甘く、題を考えることを面倒くさいと思っている。そこに都合の良い言い訳がある。

世の中の多くの人が深く考えることを避けるようになったと思う。考えるとは数式を解くときに考えるということを指すのではなく、人生のこと、社会のことについて考えることである。人間関係で悩み、苦しみ、憤る、不条理に怒り、心の悼みに寄り添う。

考えることは、人としてあるべき姿を自らに求めるものであり、そこから品格は生まれる。「無題」と題された絵は、考えませんでしたという絵があって、考えていない絵はつまらない。一方で熟考の末にある「無題」は、恐ろしい。

多くの絵は題と共に合って、一体化したものである。

ムンクの「叫び」は叫ばなくてはならない観る者への呼び醒ましがある。あの絵が「無題」であったら、こんなに多くの人の共感を得ただろうか。

 

16. 6月 2017 · June 16, 2017* 負のデザインが、デザインに活力を与える。 はコメントを受け付けていません · Categories: 未分類

6月15日午後、愛知県立芸術大学で特別講義、テーマは「負のデザイン」。

デザインの殆どは正のデザイン、それはデザインが社会とともにあるからである。社会的であるとは「清く、正しく、明るく、美しく、楽しく・・・」が求められる大量に生まれるデザインにおいてはあくまで社会に了解を得なければならない。

そんなデザインはどこか虚偽性を孕んでいて、表層的でもある。なんだか嘘くさい。

「負のデザイン」は危ういが生きることの本音を捕まえていて、多くのデザインに活力を与えて来た。

 

15. 6月 2017 · June 15, 2017* 表現技術は時として感動を生むが、創作の目的ではない。 はコメントを受け付けていません · Categories: 未分類

毎月、文芸誌の表紙を木版画で制作している。版制作、刷り技術は上達するし、上手くなりたいと言う職人意識も常にある。15年前に木版画を始めたが、その頃の作品は今より技術は下手である。しかし、作品が良くないかというとそうではない。むしろ、木版画を始めたばかりの楽しさが版画に感じられてなかなか良い。

表現技術は、観る人を感動させることがあるが、感動させるために表現技術が磨かれるべきではない。
創作者は表現技術の上達に酔ってしまうことがある。誰もが判りやすく、「上手い!」と賞賛してくれる。これが危険。
岡本太郎は「絵は上手くっちゃいけない、下手な方がいい」と言っていますが、これの意味するところが表現技術賞賛の否定。写真が発明されコンピュータ時代にあって、表現技術賞賛は意味がない、そこに目を奪われてはいけない。
では本当に下手な方が良いのかというとそういう意味ではない。
一番大切なことは、創作者の想い。伝えたい想いのない上手い絵というのはつまらないということである。
創作者の想いを実現するために、表現技術が必要で、そのために磨かれる。それは必ずしもデッサン力があるとか超絶技巧という意味ではない。
デッサンは表現技術の骨をなすもの、ですがデッサン至上主義は主客転倒である。
想いと技術が一つになった時、美術が生まれる。