『廃仏毀釈―寺院・仏像破壊の真実』畑中章宏(ちくま新書、2021年)
廃仏毀釈については随分と長い間、私の中でモヤモヤとしていた。中学校の歴史の時間に明治維新について、「廃藩置県」「富国強兵」「廃仏毀釈」と学んだ。廃仏毀釈とは、「仏教を排斥し、寺などを壊すこと。明治維新の神仏分離によって起こった仏教破壊運動。」と習った記憶があるものの、私の村には寺があったし、修学旅行で行った奈良や京都にも立派な寺や仏像があった。
実態がよく解らないまま何年も経った。20年ほど前に中津川にある苗木城阯を訪れたとき、そこの苗木遠山資料館で廃仏毀釈の一つの実態を知ることになった。当時苗木藩で行われた廃仏毀釈は、他藩では類例を見ないほどの激しい徹底したお寺、仏像、仏具、経典の破壊が行われた。その結果現在でも旧苗木藩地区ではお寺は存在しない。
本著によると、廃仏毀釈は極めて複雑で、藩ごと、地域ごと、寺ごとによって対応が異なった。誕生したばかりの明治政府の考えも、明治天皇の神格化にともない神社を特化させなければならない事情のもとに行われたが、明治政府の混乱もあって、藩の対応が主となった。知事の立場も様々であり、寺院の力も様々であった。さらに地域住民の信仰実態も様々であり、廃仏毀釈を率先して実行した檀家もあれば、徹底して寺を守った例もあった。
それまでの歴史的状況は、武士が仏教寺院の力を利用して勢力を伸ばして来た流れ、神仏集合の流れありで、廃仏毀釈は混乱を極めた。四国八十八ヶ所の中にも神社がいくつも含まれていたり、神社の中に仏像が本尊として拝まれていたり、神社と寺院の区別がつかないものも多く存在した。神社には多く神宮寺という仏教寺院を抱えていたし、権現(神々を仏教の仏や菩薩が仮の姿で現れたものとする本地垂迹思想による)の存在は、廃仏毀釈に大きな壁となるものだった。権現には、秋葉権現、熊野権現、金毘羅権現、蔵王権現、立山権現、箱根権現など現在でも深い信仰を集めているものが多い。
現実には、多くの寺院が焼き払われ(鹿児島県は殆どの寺院が壊滅)、仏像・仏具が壊された。かろうじて難を逃れた仏像が、その後国宝、重要文化財になったものも多く存在する。読後、知識はふえたものの私のモヤモヤはさらに肥大した。