08. 6月 2021 · June 8, 2021* Art Book for Stay Home / no.67 はコメントを受け付けていません · Categories: 日記

『踊り候え』鴨居 玲(風来舎、1989年)

57歳、排ガス自殺の鴨居玲、生前のエッセイを集めたものである。一部追悼文も添えられている。あの生死を見つめ、突き詰めて描くような絵と自殺者の著書となると、相当に重苦しいことが予測されるが、幸いにも期待を裏切って読み手を楽しくさせてくれる。楽しいが、徐々に自ら死に追い詰めていくであろうことが予測されて、やはり楽しい中にどこか重苦しさがある。鴨居玲は自らに厳しい、いくらユーモアたっぷりに語ったとしてもどこかで自らを責めている。

「人間の生き方として圧倒的なショックを受けたのは、エディット・ピアフという歌手です。この人の伝記で『わが愛の讃歌』という本があるのですが、その本を読んでショックを受けた私にとって聖書のようなものです。あれだけ自分を傷つけて傷つけて、そのかわり何というのか、そのために自分が昇華されていって・・・・・。すごい人がいるものですね。ちょっとおそろしくなるってくる。」

恐ろしいと言いつつ、どこかで憧れている。ものすごくストイックで、一方でだらしない鴨居がいる。私などは、甘いだらしない自分を愛すべき自分として、簡単に許してしまう。鴨居玲はそういう自分を許せないでいる。なぜか、「描くモチーフにいわゆる底辺の人間が多いようですが」の問いに「別段にそんな意識はありません。ただ私は人間の心における暗い面、弱い面といったところに興味をひかれるんです。」そしてその興味の先にいるのは自分なんだと。

「昨夜、私はまたあるインタヴューに答え、人間とはなにか、人生とはなにか、絵とはなにか、とうとうと語ってしまった。何故てらうこともなくもっとお金もほしい、名誉もほしい、地位もほしいと言うことができないのであろうか。」
こんなにも自分のことが解っているのだ。そんな鴨居玲を愛しく愛おしく思いながら「踊り候え」を読み終えた。

画家の中には命と引換えにしてまでも、名作を生み出す者がいる。

30. 5月 2021 · May 29, 2021* Art Book for Stay Home / no.66 はコメントを受け付けていません · Categories: 日記

『個人美術館への旅』大竹昭子(文春新書、2002年)

個人美術館というのは、一人の作家の作品を収蔵した美術館のことである。したがって美術館の名前にはその収蔵作家の名前が入っている。清須市はるひ美術館の近くにも稲沢市荻須記念美術館、一宮市三岸節子記念美術館がある。

本書には12の美術館が収録されている、作家は萬鉄五郎、土門拳、富岡惣一郎、川上澄生、小杉放菴、岡本太郎、秋野不矩、熊谷守一、植田正治、香月泰男、イサム・ノグチ、猪熊弦一郎、大変魅力的な顔ぶれだ。

著者は個人美術館の魅力として、「いろいろな作家のものを一同に集めた県立美術館などに比べると作品の量が少なく、展示室を三つ、四つまわるともうロビーにもどっている。この小ささがとても都合がいい。はじめはあっけなく思っていても、しだいに、作品とじっくりむきあうには、これくらいのサイズが適当であるのがわかってくる。」作品と向き合うとしているが、作家と向き合うといった方がふさわしいだろう。一人の作家が人生をかけて何を考え、どういう創作にたどり着いて行ったのか、その人生と向き合うことになる。

そしてもう一つの個人美術館への旅の魅力は、その美術館が作家の郷里であったり、アトリエのあった場所であったり、人生の大半を過ごした土地だったりと、ゆかりのある場所に建てられていることが多い。そうした点でも作家と向き合う興味深い関わりとなる。

この著書は旅行記でもあり、また各館ごとにその美術館の詳しいデータが記されていてガイドブックにもなっている。「個人美術館への旅」は、一人で出かけることが望ましい。一人で出かけて美術館で作家と出会うのだ、作家と二人だけの濃密な時間を過ごすという贅沢な旅となるだろう。

21. 5月 2021 · May 21, 2021* Art Book for Stay Home / no.65 はコメントを受け付けていません · Categories: 日記

『アート・マネージメント 画廊経営実感論』佐谷和彦(平凡社、1996年)

アートマネージメントとは何か、一般には「美術、音楽や演劇などの芸術活動を支援する際の方法論。」と理解されているが、それは間違っていると思う。そもそも芸術活動が精神の純粋な発露で、経済活動とは無縁なイメージを有していることから支援という言葉が使われてしまっている。

美術手帖のART WIKIによると「芸術・文化活動と社会をつなぐための業務、もしくは方法論やシステムのこと。確たる定義をもつ職種名というよりは、アートに関わるマネジメント業務全般を指す用語として広い意味で使われる。」こちらの方が正しいだろう。

アート・マネジメントは1960年代のイギリスとアメリカでほぼ同時期に使われるようになった概念で、美術史、美術論から考えればいかに最近の用語であるかがわかる。大学では1990年に慶應義塾大学で初めて「アート・マネジメント」の名を冠した講座が開設された。その講座に年2回ゲストスピーカーとして講師を務めたのが、佐谷画廊の佐谷和彦、著者である。美術と社会をつなぐ最もリアルな現場が画廊である。画廊では取り扱う全ての美術作品に価格設定を行い、作品の売買を行う。アート・マネージメントは必ず売買と関わるものではないが、そのことを無視して多くの芸術・文化活動は成り立たない。美術館で開催される展覧会では価格表示が無いが、所蔵作品は購入金額というものが存在するし、寄贈による場合でも想定価格というものがある。また借用による展示であっても、作品には保険がかけられる。その際作品価格に対して保険額が設定される。

本書『アート・マネジメント 画廊経営実感論』は慶応大学での講座ノートをベースに書かれたものである。著者の立場から「画廊経営論」としても書かれている。因みに私も「スペースプリズム」という小さな画廊を30年以上経営しているが、その経験から鑑みて本著は細部に渡ってリアルであり、具体的に作家、作品を例にとって説明が行われている。作家、美術愛好者にとっても大変興味深い内容となっている。

画廊を経営していると時々相談を受ける、「美術が好きで画廊を開設したいのだけれど、どう勉強したら良いでしょうか、作家を紹介していただけますでしょうか」というもの。「儲からないですよ」と言えば「儲けは気にしません、社会に文化貢献できれば」という答え。文化貢献するためには、作品を買い上げて作家活動を支援するというシンプルな方法がある。その前に先ず本書をお読みすることをお薦めする。

12. 5月 2021 · May 12, 2021* Art Book for Stay Home / no.64 はコメントを受け付けていません · Categories: 日記

『アートレス』川俣 正(フィルムアート社、2001年)

川俣正は現代美術作家である。絵を描かない、立体物を造るが凡そ彫刻と呼べるものではない、立体作品とも呼びにくい。そのインスタレーション作品は世界を舞台に発表されてきたが、主に仮設設置。美術館にコレクションされているものは、プロジェクトのプラン、模型である。川俣正の作品がコレクションされているとは言えない、考えがコレクションされているのである。本著名が「アートレス」なのは、そうしたバックボーンからなのか。本書が発行された当時は東京藝術大学美術学部先端芸術表現科教授であったが、あらゆる意味で「どうだ、芸大の教授だ」という雰囲気にはほど遠い。

本文「まえがきにかえて」では、冒頭に「自分の行っている仕事を他人に紹介する時、なかなかうまく説明できないもどかしさをいつも感じる。『これは現代美術です』などと言って、他の美術との住み分けをはっきりさせ、現代美術ということで何だか訳がわからない作品を、わからないということが、そのまま現代美術ではステイタスになってしまうことの凡庸さに、自分は付き合いきれないところがあるし、コンテンポラリー・アートなどという洒落た言葉の中にある、何か上滑りするような気持ちの悪さの中にいたいとは思わない。」これが世界を舞台に活躍する川俣の本音であると思う。なんと謙虚で正直な言葉だろうと思う。この書き出しで私は本著をグイグイと読みすすめることができたように思う。現代美術作家の自己本位な書き連ねなど、どれだけ真剣であっても一冊お付き合いしたいとは思わない。

また「『アートレスの提言』。それはあくまでも既存の美術言語や流行、スタイル、例えば『綺麗なもの』、『美しいもの』、『美的価値』や社会的な規範からなる常識的言語に裏打ちされた『美』なるもの全般に対する、懐疑を意味している。」つまり既存の価値、意味、約束に対して否定することより始まるアートということか。

作品の多くが建築用板材を並べたり組んだり、立ち上げてまるで工事現場の様相であるからか、川俣正の容貌は大学教授というよりも工事現場監督のようで、いつも「これがアートか、これでもアートか」叫び続けているようだ。そういう問いかけに対して頭でも心でもなく、身体で納得し続ける川俣正がいつも気になる。

02. 5月 2021 · May 2, 2021* Art Book for Stay Home / no.63 はコメントを受け付けていません · Categories: 日記

『NHK 美の壺 柳宗悦の民藝』NHK「美の壺」制作班 編(日本放送出版協会、2009年)

民藝に関する柳宗悦による著作は膨大にあって、緻密な説明、解説、紹介がなされている。そして根本に流れる考えは「民藝とは何か」である。一見簡単そうに思える民藝の意味、民藝の美しさは、感覚的には理解可能なものであるが、言葉にするには極めて難しい。領域的に近いものとして、工芸、デザインが挙げられるがそれとは異なるものである。

NHK BSテレビでは、その壺を3つ紹介して説明する。「柳宗悦の民藝」においても、壱のツボ「てらいが無いから美しい」、弐のツボ「自然の意思を感じよ」、参のツボ「使い込むほど美しい」としている。的を得たツボであるが、壱と弐は極めて難しい。「てらいが無い」ということはモノを作る上で極めて困難である。上記の工芸、デザインにおいててらい無く造り出されたものは殆どないと言える。また美術作品で言えば、てらい無く作り出されたとしたら、それは芸術ではないとさえ言える。芸術において作者の想い、思想、感情、狙い、喜怒哀楽がてらいも含めてどのようなものであるかが鑑賞者の共感を生むからである。民藝はそこを否定する。従って無名であること、作者は民(庶民、農民、常民、平民)であることが民藝における「てらいが無い」を生み出す。弐のツボ「自然の意思を感じよ」においても、この自然の意味は現在我々の認識する自然ではない。近い言葉で言えば風土を指している。柳宗悦らが提案して作られた日本民藝館には柳宗悦の審美眼を通して蒐められたものが17,000点に及ぶ。アイヌ、沖縄、東北、朝鮮、そして都市から遠く離れた日本奥地。つまり暮らしそのものが風土に根ざしたものであって、民藝が伝えられ残されていたのである。

現代においても民藝と呼ぶに値するものはあるが、極めて少ない。民藝が息づく民家と暮らしがほとんど失われてしまったからである。それでも民藝精神が生き残るのは柳宗悦が民藝の美を伝え、残したからである。

20. 4月 2021 · April 20, 2021* Art Book for Stay Home / no.62 はコメントを受け付けていません · Categories: 日記

『ゴッホの復活』小林英樹(情報センター出版局、2007年)

ゴッホ研究で極めて著名な小林英樹の『ゴッホの遺言』『ゴッホの証明』に続く3冊目。この著書の主要はゴッホの3作「芦屋のひまわり」(1945年戦災により焼失)、「ジヌー夫人」(オルセー美術館蔵)、「東京のひまわり」(SOMPO美術館蔵)が贋作であるという証明にある。「芦屋のひまわり」「東京のひまわり」は本著における便宜上の俗称。

美術作品観賞に関しての論考については、大きく3つの立場があると思う。一つ目は美術史の立場(美術史家)から、2つ目は美術評論(美術評論家)の立場から、そして3つ目は美術作家としての立場から。それぞれ明確な区別はないが論考の主たる根拠をどこにおいているかということにある。

小林英樹は、東京藝術大学美術学部油画専攻の画家である。一般に作家というものは自らの創作に関わることでは著述があり、特に現代美術の分野では著述もまた創作の一環であるという考えがある。しかし、小林のように自作と関わらないところで多くの著述を展開している作家は極めて珍しい。それは作家として沈黙することができない、沈黙することは自らの創作をも否定することになるといった哲学のようなところから発しているのではないかと思われる。

『ゴッホの復活』で取り上げられた3作の贋作論考は画家ならではのもので、描く者が心身で獲得してきている絶対的自信に満ちている。例えば本文中の「種子や花瓶や背景などが、必ず最後には刺激的な油絵の具の物質的表情に行き着く」「頭で捻出したお堅い理論や方法論に沿って出したのではなく、直感的に、瞬時に画面上で表すことができるほど冴えわたった集中力と過敏な完成、そして的確に描き分けられる技術」「絵画には画家の魂の深さが出るものだ」「絵画は、その前に立って制作した画家と鑑賞者の位置を重ねられる特殊な表現」「画面上に置いた厚い油絵具が乾燥するまでの時間を考えれば」など。

また、真贋を明らかにするために「一、出所、来歴の検証」「二、科学的検証」「三、造形的見地からの検証」としている。一や二はそれを偽造することは可能でありそれの真贋もまた問われなければならない。三については最も優先される方法であると思うが、人間の判断能力に負うものが大きく、客観性に乏しいと思われる。したがって一や二がまかり通ってしまう。小林は三の造形的見地から出来得る限りの客観性をもって3点の贋作を証明している。

そして本著を読み終えた私もまた小林の指摘に100パーセント共感するものである。私もまた作家としての立場から。

10. 4月 2021 · April 10, 2021* Art Book for Stay Home / no.61 はコメントを受け付けていません · Categories: 日記

『キュレーターズノート二〇〇七―二〇二〇』鷲田めるろ(美学出版、2020年)

キュレーター鷲田めるろは、1999年より2018年まで金沢21世紀美術館キュレーター、2020年より十和田市現代美術館館長。本著は自らのキュレーターとしての活動をレポート、批評を加えたものである。主に金沢21世紀美術館在籍中のものであるが、そこにとどまるものではなく、第57回ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展日本館キュレーター、あいちトリエンナーレ2019キュレーター、金沢美術工芸大学客員教授など幅広い活躍が注目されている。

現代美術にスタンスを持つ鷲田は、美術、美術館、展覧会、プロジェクト、ワークショップをはじめ美術教育、地域の問題、まちづくり、芸術祭、都市とアートなど様々な関わり合い方によりアートの持つ可能性を拡げている。「これがアートか」という問いの前に、アートは何をなしうるのかが徹底している。そのために必要な知識に貪欲である。

個展などの単位から視点は見据えられ、都市や民族が生み出すダイナミズムへの視野へも欠けることがない。多くの興味深いレポートから「1980年代の日本の美術に関する展覧会を開催するに当たっては、金沢21世紀美術館は設立の20年前(1980年以降)からを収集の対象としていること」、現代美術の時系列に対して考え方を明らかにしていくことの重要性を語っている。「金沢21世紀美術館のデザインギャラリーにおいて、現代美術のキュレーターが持つ可能性とはなにか」、デザイン軸をずらすことなく立ち向かっている。「芸術祭と美術館の創造的関係について、これからどのような可能性と問題を孕んでいるか」、あいちトリエンナーレ2019「表現の不自由展」にキュレーターとして真っ向から取り組んだ経験を通して提議している。

清須市第10回はるひ絵画トリエンナーレ審査員の一人としてお願いした。一点一点の絵画作品から見えてくる多様な問題を提起いただいた。今後の清須市はるひ美術館にとって刺激的なメッセージとして活かしていきたい。

01. 4月 2021 · March 30, 2021* Art Book for Stay Home / no.60 はコメントを受け付けていません · Categories: 日記

『ピカソ 剽窃の論理』高階秀爾(ちくま学芸文庫、1995年)

ピカソが1973年に亡くなって間もない頃、1976年高階秀爾氏が『ピカソ 剽窃の論理』を出版、当時大好評を得た著書である、本書はその増補版。剽窃とは一般に「他人の文章・語句・説などを盗んで使うこと。」とされている。美術界の巨人として高い評価を得ているピカソに対して「ピカソ 剽窃」は強烈なインパクトを放つ著名であった。

増補版を刊行するにあたって著者は「『剽窃』という言葉は、通常そうであるように、否定的意味で用いられているのではない。それは、他人の作品を下敷きにしているという点では模倣であり、借用であるが、同時に、借用したものに基づいて奔放自在に自己の創造力を展開して見せる点で、変奏と呼んだほうがよいかもしれない。」としている。がしかし、著者が敢えてこの断り文を置いているところを思うと、多くの人が「ピカソの盗作」と思うであろうことを予想をもしているのである。そういった両方の意味で本著の魅力があると私は思う。この手法が巨匠ピカソであるから成立するのであって、並の作家においては大変危険な手法であることは言うまでもない。

本文では、ピカソが「借用したものに基づいて奔放自在に自己の創造力を展開して見せる」ところを見事に紹介している。そこには、ドラクロア、ルノワール、モネ、ドニ、ドガ、ゴッホ、ロートレック、ベラスケス、クラナッハ、デューラー、ティツィアーノなど錚々たる顔ぶれが登場する。ピカソにしてみれば、借用するものは不出来なものであってはならないと言った論理だろうか。名画こそ名画を生むといったことも言えるだろう。ピカソにおいても剽窃の下敷きになっている作品名や作家名を堂々と自作のタイトルとしているので、そこには後ろめたいものは全くないのである。

画家を志す若い作家にはぜひ読んでいただきたい本である。私が美術大学で教員をやっていた頃、多くの学生作品に自らの好きな作家に似ている、中には酷似しているものがあった。そのことを指摘すると似ていないと否定したり、似ていることを悩んでいると告げたものだ。私は「若いうちは、大好きな作家の作風に似るのは当然のことである。それだけ君が勉強していると言うことだ、大丈夫、絶対同じものは描けないから。近づけば近づくほどその違いが見えてきて、自分が見つかるから」と大好きな作家に強く影響を受けることを肯定した。熱意ある学生たちは必ず自分を見つけていく、その回り道に過ぎない、いや近道かも知れない。大切なことは大好きな作家を尊敬し続けることだ。ピカソもきっとそうであったと思う。

23. 3月 2021 · March 23, 2021* Art Book for Stay Home / no.59 はコメントを受け付けていません · Categories: 日記

ストリート・ファニチュア』西沢健著(鹿島出版会、1983年)

サブ著名は「屋外環境エレメントの考え方と設計指針」とある。設計指針とあるからには設計者のために書かれたものである。つまり専門書である。専門書であるが、ストリート・ファニチュアは専門家のためのものではない。

ストリート・ファニチュアとは何か。文字通り訳せば「道の家具」であるが、この場合の道は公園、駅、イベント会場など広く公共空間を指している。1970年頃からヨーロッパで使われるようになり、欧米では小冊子が発行され、フランスではルーブル美術館において展示会やセミナーが開かれている。家具と言えば家に所属するプライベートなものであるが、ストリート・ファニチュアはパブリック(公共)なものである。具体的には、ベンチ、車止め、郵便ポスト、電話ボックス、街灯、信号機、道路標識、バス停、路面電車の停留所、タクシー乗り場、公衆トイレ、噴水、水飲み場、フラワーポット、記念碑、公共彫刻、ゴミ箱など様々なものがある。

ストリート・ファニチュアにおけるデザインの難しさは、ファニチュアを利用する人が不特定多数なことによる。家のソファであれば、家族が使い、家族の意見の一致を考えることはさほど難しいことではない。また気に入らなくてソファを交換することも可能である。どこにどのように置くかも全く自由である。ところがベンチに至っては、あらゆる人があらゆる状況で利用する。設置は固定であり、取り替えるには大きな費用、公的判断が求められる。ヨーロッパでは、歴史的な流れと文化の中で広場のあるべき姿の共通認識があるのでデザイン、設置場所が設計されやすい。一方、日本においては明治以降の僅かな歴史の中で、ヨーロッパのデザインを受け入れていったので多様な意見が持ち込まれ、判断が非常に難しい。日本庭園の美しさに比較して公園の美意識の低さはそういうところにある。

ストリート・ファニチュアのデザインは、個々のデザインと通りや公園のデザインとの高い一致点が求められるのである。その上で日本人における公共空間の考え方の未成熟度にまだまだ迷走しているのが現在の状況である。

本著は発行後37年になるが、ストリート・ファニチュアを知り、学ぶ数少ないバイブル的存在である。

10. 3月 2021 · February 9, 2021* Art Book for Stay Home / no.58 はコメントを受け付けていません · Categories: 日記

『名画の値段―もう一つの日本美術史―』瀬木慎一(新潮選書、1998年)

 アートブックは私が読んだ本の中から美術が好きで、もっと美術のことを知りたいと思う人にお勧めする本である。美術への疑問に対して答える本もあるが、美術がもっともっと好きになって、もっともっと知りたいと思うようになるそんな本を紹介している。したがって、その領域やテーマはバラバラである。可能な限り紹介したいと考えているので選び方や順番はかなり主観的である。もし10冊を選べと言われればたいへん困るのであるが、間違いなく10冊に入れるというのが本著『名画の値段・・・』である。

名画の値段について述べた本は、極めて少ない。ただ美術流通品として値段を語るなら、それはカタログである。瀬木慎一は日本を代表する美術評論家として知られる。しかし、瀬木は美術社会学研究者としても知られる。つまり経済の視点で美術を論じることを重要視している。そういう背景を持って本著が書かれている。

美術と美術品は異なるものである、美術価値と値段のつく流通品価値とは異なる。その上で美術の値段が美術の価値に影響を与え、ひいては美術史に大きな影響を与えてきた。表紙に書かれているように「美術を評価するに際して価格を与えなければならない」という矛盾を抱えているのである。

「芸術が純粋で清いものであって欲しい、あるべきだ」という考えは、値段を示さず鑑賞するだけという美術館、経済社会と深く関わって来ている美術史に値段が語られていないこと。そういった矛盾に真っ向から突っ込んで論じる本著は、美術大好き人間の中にあるモヤモヤとした霧を晴らしてくれるだろう。