29. 10月 2017 · モンデンエミコの刺繍日記 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 展覧会, 未分類

企画展のタイトル「日常を綴る」は、「宮脇綾子展」だけでなく、同時開催の「モンデンエミコの刺繍日記」と共通のコンセプトです。

これまでにもたびたび開催されてきた宮脇綾子展を踏まえ、何か新しい切り口で作品の魅力を伝えられないだろうか?と考えていたとき、モンデンエミコというアーティストの存在が頭に浮かびました。

宮脇綾子とモンデンエミコ。二人に直接的な接点はありませんが、どちらも「手芸」をベースにする作家で、それぞれ異なる基本軸がありながら共通項がある。この二人の作品によって生まれる化学反応を見てみたいと思いました。

 本展のチラシも《刺繍日記》の1点に。

モンデンエミコは封筒や紙袋、チラシやレシートなど身の回りにある紙に刺繍をほどこした作品を《刺繍日記》と題し、約2年間、毎日1点ずつ作り続けています。

もともとは金属彫刻家で、刺繍とは程遠い世界に身を置いていました。

制作環境や家庭環境の変化にともない、作品づくりの手法を模索。たどりついたのが「刺繍」でした。

自分の専門分野である彫刻の世界を離れても、それでもなお表現せずにはいられない、強い欲求。

(睡眠時間を削りながら)毎日制作し続けることはとても大変なことですが、彼女にとっては一方でその苦労が作家としての矜持につながっています。

モンデンさんは、環境の制約を逆手にとり、限られた環境だからこそできることをオリジナルな表現に昇華させ、また「日記」という形をとることで何でもない日常を表現の題材にすることに成功しています。

画家にとっての表現ツールが筆と絵具であるように、モンデンさんの針と糸は彼女のコミュニケーション言語です。針で思考し、糸で発する。

日常とは、私たちの周囲を取り囲む空気のようなものです。当たり前に存在し、人生の99%はそれらで占められていて、改めて意識することなく、漂い流れていく。

しかしそれはポジティブに考えれば、私たちの心の持ちよう次第でどうにでもなる、とても柔軟で可能性に満ちた領域と言えるのかもしれません。

今回展示している宮脇綾子の《色紙日記》や旅行記などを見ていると、ただ毎日の出来事を綴っているという以上に、液状に流れる日常を掬い取り、丁寧に濾して一コマ一コマを結晶化させていくような、そんな印象を受けました。

嬉しいことであっても、悲しいことであっても、日常の小さな出来事を自らの心に留め置き、作品という形にあらわす。宮脇綾子とモンデンエミコの共通点だと思います。

 

当初、展覧会のタイトルを「日々是好日(にちにちこれこうじつ、またはひびこれよきひ)」にしようと考えていました。(抽象的すぎるということで、結局ボツ)

禅語のひとつで、損得や優劣、是非などにとらわれず、良いことがあっても悪いことがあっても一瞬一瞬ただありのままに生きれば、どんな日もかけがえのない一日となる、という意味だそうです。

モンデンさんの《刺繍日記》のなかに、偶然「日日是好日」とテキストが書かれた作品があり、ちょっと運命を感じてしまいました。

 

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24. 10月 2017 · 日常を綴る 宮脇綾子展 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 未分類

アップリケと聞いて、みなさんはどんなイメージを持つでしょうか。

昔ズボンのひざが破れて繕ってもらったなあ・・・とか、お母さんにねだってかわいいワッペンを縫い付けてもらったなあ・・・とか。

どこか懐かしい響きです。アップリケ。(展覧会のチラシなどでは、原語の発音に近い「アプリケ」で統一しています。)

現在開催中の展覧会では、アップリケを制作手法としたことで知られる、宮脇綾子の作品をご紹介しています。

今回、彼女の作品を取り上げるにあたって強く意識したのが「日常性」です。

「日常を綴る」というタイトルにもなっていますが、取り上げるモチーフ、制作の姿勢、そしてアップリケという手法どれもが、身近で、親密で、あたたかい。

庭の草花を愛で、野菜の断面の美しさに驚き、食材としてまな板に上がった魚たちの表情に思いをはせる——何気ない日常のなかで、綾子さんは小さな喜びや驚きを積み重ねて生きてこられたのだろうと思います。

部位によって微妙に異なる色合いや絶妙な輪郭線のカーブなど、特徴をよくとらえていながらも、どこか歪で不格好なところも作品の魅力です。「世の中に同じようであって、同じものは二つない。」と本人が語っているように、一つ一つが個性的で完成された自然の造形を、さまざまな布を巧みに使い分けて表現しています。

アップリケや刺繍、編み物といった「手芸」は、家庭内での仕事や、手軽にできる趣味として位置付けられ、芸術の領域外に置かれてきました。

多様な表現が生まれている昨今のアート業界ですが、ようやく最近日の目を見るようになってきた工芸やデザインに比べても、まだ手芸は芸術として認められてはいないようです(「手芸」側からしても「芸術」であることを求めてはいないのかもしれません)。

綾子さんもおそらく芸術と手芸をめぐる複雑な関係性は多かれ少なかれ実感していたのでしょう、自らの作品を「芸術だと思ったことがない」としつつも、「でも、手芸家といわれるのもイヤ。」と言っていたりして、自身の作品に対する芸術性を否定しながらも、従来の手芸の範疇を超えて、表現を追求しようとしていたことがうかがえます。

また、東西を問わず古くから女性の生業であった「縫う」という行為は、どうしてもジェンダー論的な立場から語られがちです。綾子さんがアップリケという技法を選択したのも、嫁・母としての役割を果たす以上身に付けざるをえなかった針仕事の技術があったからこそですし、彼女が主婦としてできることだったからです。が、作品そのものにはそのような観点はあまり関係がありません。

自分の思いや考えを可視化し誰かに伝達するためのツール、というのが芸術のひとつの定義だとするならば、綾子さんの場合、その方法がアップリケだったということなのでしょう。

彼女の作品のファンが多いのは、アップリケという技術に親近感を覚えるからだけでなく、誰もが共感できる日常的で普遍的な感情――美しいものを見たときの喜びや面白い形に気づいた時の驚き――が直接感じられるからなのだと思います。

 

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