24. 7月 2020 · July 24, 2020* Art Book for Stay Home / no.24 はコメントを受け付けていません · Categories: 日記

『装幀列伝 本を設計する仕事人たち』臼田捷治(平凡社新書、2004年)

日本の本の歴史というのは、和装本と洋装本に分けられる。本書では私たちが図書館等で観ることが可能な明治以降の洋装本について、本を造る人に注目し装丁の美しさ、魅力について語っている。

装丁は誰がするのか。装丁家あるいはブックデザイナーというプロフェッショナルがいる。
しかし、その方たちも含めて装丁の魅力に取り憑かれた人は多く、それはすなわち本というものが、内容のみに依って愛されているのではないこと示している。
一冊の本、あるいは全集、シリーズとしても、本が表現としての造形世界でもあることにほかならない。

編集者による装丁、詩人による装丁、著者自装、画家、版画家、イラストレーターの装丁など、ものづくりの人間にとって装丁は、極めて魅力的な創造物である。
デスクやテーブルに置かれたオブジェ、手に触れて楽しむ愛蔵物としての歓び、書庫を飾る風景として、多様な美を演出してくれるのが装丁である。

待ち時間や電車内で本を読まれている方を見かけると、とても素敵な風景だなと思う。しかしその本が書店カバーなどで覆われているのを見ると、装丁者の気持ちになって悲しくなる。
本は読まれているときが最も本が生きているときであって、その時間とともに装丁も楽しんで欲しい。
読後書棚に保存されるときにカバーを剥がすとしたらあまりにも寂しい。ましてカバーのまま書棚に永遠あると考えたらなお寂しい。
全ての本が、一冊一冊唯一のものとしてデザインされている。

私の自著『きおくにさくはな』(2019年風媒社刊)は私の自装であるが、内容のやさしさ、美しさ、なつかしさを眼と手に感じていただけることを願ってデザインしている。

全ての本が、内容と装丁を楽しむ時間であって欲しい。

19. 7月 2020 · July 19, 2020* Art Book for Stay Home / no.23 はコメントを受け付けていません · Categories: 日記

『日本の庭園・鑑賞ガイド 庭がよくわかる本』野村勘治、撮影:大橋治三(婦人画報社、1994年)

美術の領域をどのように決めるかということは、美術そのものを理解する上で極めて重要なことである。
日本画が好きとか、民芸が好きとか、あるいは映像が好きとか、そのことは観る者の全く自由で、不自由であってはならない。
私は美術の領域を極めて広く考えるべきだと思う。なぜならどの分野も造形的に他領域と関わっており、広く影響を与え合っているからである。また分野はあっても境界線を引くことはできない。

とりわけ日本の庭園は、「龍安寺石庭」に代表されるように美術の一領域として位置づけられているにもかかわらず、鑑賞という点で極めて難解さを感じている人が多い。
本著のサブタイトルには「庭に隠された約束ごと」とある。日本の庭園鑑賞が難しいのは、この「約束ごと」にある。しかも「隠されている」のである。
旅行にでかけて、庭園が名所になっていたから覗いてみたという経験は多くの人があるだろう。しかし入園してはみたものの、どこが良いのだろうか、どこをポイントに見ればよいのか。説明パンフレットには何年に、誰(施主)が造ったかが書かれているものの鑑賞に関してはよくわからない。
本著扉には「それは、庭の歴史が紡いできた約束ごとが隠されているからです。」とある。

難しいことは入門書を手に取るというのが私の方法である。
本著はガイド本であり、3分の2ほどが美しい写真である。当然、有名な庭園は網羅されている、既に行ったところもある。

造形物を楽しむというのが美術の基本である。
しかし、絵画のような平面、彫刻のような立体は物理的に捉えやすいが、庭は空間である。
空間は対峙して観ることもできるが、空間という作品の中に入って観ることもできる。
空間の中に入ると見え方(景色)が変化する。
そこには時間も感じられて、自らの人生の長さを通して観ることになる。
歳を重ねるほど庭の良さを愉しむことができるのはそこにある。

11. 7月 2020 · July 11, 2020* Art Book for Stay Home / no.22 はコメントを受け付けていません · Categories: 日記

『等伯』安部龍太郎(文春文庫、2015年)

アートブックシリーズで初めての小説を紹介。
もちろんフィクションですが、美術史では書けない長谷川等伯の人間模様が解ってとてもおもしろい。
もちろん実在人物なので、判っているところはすべて事実に即していると考えられる。
等伯が等伯になる前の長谷川信春(のぶはる)を克明に描いている。
そしてやはり画家の道を歩む息子の久蔵のことも。

千利休、狩野永徳、豊臣秀吉、石田三成、春屋宗園、近衛前久、歴史に連なる実在人物と等伯の関係、特に狩野派と等伯(のち長谷川派)の絵師仕事を受注する争いは、美術を美しいものとする以前に見応えのあるものである。

庶民を対象とした浮世絵とは異なり、天下人の寵愛を獲得することなしに屏風絵、襖絵は存在しない。
また残り得なかったとも言える。京の富裕商人も天下人に習って贔屓としたのである。

美術に限定するまでもなく、文化の領域で小説の主人公として取り上げられる人物がいかに少ないことかと思う。
まず知名度があって、人生にドラマがあって、主人公に関する資料がどれだけ残されているか。絵師は描いた絵が大きな資料となる。
等伯の場合も代表作《松林図》をはじめ多くの屏風絵、襖絵が残されており、そこから人生を読み取ることができる。

小説『等伯』によって、等伯の人物像を浮かび上がらせることができる。その上で《松林図》を観ることは、人間ドラマとともに楽しむ、美術のあじわい方の一つであると思う。
小説『等伯』は直木賞受賞作であるが、美術と文学に虹の橋を架けるエンターテイメントである。

27. 6月 2020 · June 26, 2020* Art Book for Stay Home / no.19 はコメントを受け付けていません · Categories: 日記

『イスのかたち デザインからアートへ』企画・編集 村田慶之輔、宮島久雄、榮樂徹、塩田昌弘、建畠晢、中田達郎(国立国際美術館、1978年)

デザインとアートの違いを明確に説明したいと、学生時代から考え続けてきた。28歳のとき、椅子の造形というものに出会って、霧が晴れるように一気に解ってきた。

「椅子というものはアートなのか、デザインなのか」
どちらだって良いという答えは思考を停止させる。どちらでもあるという答えは思考を曖昧にさせる。
1978年8月に大阪の国立国際美術館で開催された「イスのかたち デザインからアートへ」という展覧会は、「椅子というものはアートなのか、デザインなのか」を140点のイス作品で問うものであった。

グッドデザインを追求したシンプルで美しいイス、座り心地を徹底追及したイス、想像を超えるフォルムのイス、かつてない素材で生み出されたイス、鑑賞することのみのために造られた座ることのできないイス(しかし鑑賞は座るというイスの機能を通して観ることを前提としている)、140点が140のコンセプトを持つイスであった。

例えば、今では著名な倉俣史朗の《硝子の椅子》、1976年にデザインされたばかりであった。
6枚の長方形のガラスのみで造られている。もちろん座ることができ、量産することもできる。デザインにとって目的を果たす機能と量産は重要な条件である。
多くのイスが座り心地を予想できる中で《硝子の椅子》は予想不可であり、その「割れるかも知れない」という緊張と不安、ときめきは視覚的な美しさを見事なまでに高めている。

岡本太郎の《座ることを拒否する椅子》、数ある岡本太郎作品の中でも代表的なものである。
岡本は「いわゆるモダン・ファニチュアのいかにも座ってちょうだいと、シナをつくっている不潔さに腹を立て」この椅子を造ったという。
陶器製で鑑賞しても楽しいが、座面が凸凹していて短時間であればお尻が笑って喜びそうな椅子である。デザインを真っ向から否定して、これもまた楽しいデザインという岡本のアートとデザインを巧みに行き来する傑作である。

福田繁雄の《トランク椅子》は大きなトランクそのものの形であり革と金属という本物と同素材でできている。
座わる人がいなければ大きなオブジェだが、座ってみたい衝動を掻き立てる、座ればたちまちイスである。

イスと言うものは明らかにデザインであるが、身体に極めて直結する精神的なものであり、生きる上で全ての人間が強く関わるものである。
精神性と深く関わるアートにとって、魅力的なモチーフでもある。
イスはアートとデザインのクロスロードであり、「アートとはなにか、デザインとはなにか」の答えを導いてくれるものである。

1978年のこの「イスのかたち デザインからアートへ」という展覧会は、その後の私のデザイン&アートワークの確かな指針となるものだった。

24. 6月 2020 · June 24, 2020* 「ルート・ブリュック 蝶の軌跡」を回想する。 はコメントを受け付けていません · Categories: 日記

全国の美術館における企画展会期がコロナウイルス感染症拡大防止対策のため、ポスターやチラシで発表されていたものと変更開催の運びとなっていることに要注意である。
本館が開催中の「富永敏博展」も同様です。

岐阜県現代陶芸美術館で開催中の「ルート・ブリュック 町の軌跡」展も4月25日から7月5日までの予定が、6月6日から8月16日までに変更された。
展示作品は、返却や次の会場へのスケジュールがすでに組まれており、保険や作品輸送業者の手配などの問題が山積みである。
しかしもっと大切なことは、展覧会を楽しみとしてくださっている多くの来館者の期待に応えることである。

 

早速、岐阜県多治見市にある岐阜県現代陶芸美術館に出かけてきた。

ルート・ブリュックはオーストリア人画家で蝶類学者の父と、旧フィンランド領カレリア地方出身の母のもとに、スウェーデンのストックホルムに生まれる。両親の別離に伴い母と兄弟とともにフィンランドに移住。
こうした多様なルーツは芸術家にとって大きな抽斗となり、豊かな表現に結びついていくことが多い。
また建築家になる夢を持ちながらグラフィックアートを学び、グラフィックデザインやテキスタイルデザイン、イラストレーターの仕事に就く。
26歳のときアラビア製陶所美術部門に招聘され、以降およそ50年に渡り同部門で活躍。
陶磁器を基本においたアラビア製陶所美術部門はルート・ブリュックの多様な才能を開花させるのに素晴らしい環境であったことを、この展覧会を観て確信する。

アラビア製陶所美術部門のアーティストは、スタジオとアシスタントを与えられ、完全に自由な制作を許されていた。基本給に加えて、作品が売れるごとに歩合給を受け取ったほか、さらに工場の窯や材料も自由に使うことができた。
美術部門をもつ製陶所はほかにもあるが、ここまで自由度の高いところはとても珍しい。もちろん日本でも聞いたことがない。
ただし、ブリュックはやがて給料の受け取りを放棄し、マーケティングで彼女の名前を使用することは禁じる一方、アーティストとしての権利は保持していた。

戦中戦後には存続の危機に直面したこともあったが、約70年の歴史を刻んだ美術部門は2003年にアラビアから独立し、「アラビア・アートデパートメント協会」という組織として新たな一歩を踏み出した。
現在は8人のアーティストが在籍し、昔と変わらず、旧アラビア製陶所の9階にあるスタジオで自由な制作が続けられている。

私は、アラビア製陶所美術部門のこうした優れた取り組みに興味をいだき、1991年と1998年にアポイントを取って訪問した。
担当の美術部門長は、工場、工房、アーティストのアトリエ、広大なギャラリー、ショールームを笑みと誇りを持って案内してくれた。
ルート・ブリュックの自由で夢に彷徨うような作品群は、アラビア製陶所との共演の中からこそ生まれ得たものと考える。

         

23. 6月 2020 · June 21, 2020* Art Book for Stay Home / no.18 はコメントを受け付けていません · Categories: 日記

『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?経営における「アート」と「サイエンス」』山口 周(光文社新書、2017年)

 

本著を読むきっかけとなったのは、友人でもある金融関係のトップマネージャーの方のお薦めである。「既にお読みかと思いますが、大変興味深い本ですね」とお話しいただき、Googleで調べてみたら既に専門書のベストセラーだった。

少し残念だったのはビジネス部門ではなく美術部門であったこと。

 

この書名の「エリート」は、ビジネスエリートのことを指している。そしてこの本は美術ファンに対して書かれたものではなく、ビジネスマンに向けて書かれた本である。

グローバル企業が、その幹部候補をアートスクールや美術館が開催するギャラリートークに送り込んで来るようになっているというのである。

それはかっこいい教養を身につけるためではなく、ビジネスにおける極めて功利的な目的のために「美意識」を鍛えているのだ。

 

これまでビジネスは、「分析」「論理」「理性」に軸をおいた経営、いわば「サイエンス重視」であった。

それは既にAIの領域となりつつあり、ビジネスエリートが身につけるものではなくなっている。

AIによる分析や判断は、どの企業も平等に取得できるものであり、また今日のように複雑で予測不可能な世界において、ビジネスの舵取りはできないことを知るからである。

 

現代美術は、論理的、理性的情報処理を否定するものではなく、それらを取り込み、超えて自己実現を目指す。

「偏差値は高いが美意識は低い」人間は決してAIを超えることはできない。

「美意識を鍛える」ためにはどうするのか。美術館は極めて大きな可能性を持っているが、哲学、モード、文学(詩)に美意識の根源があるという。

近年、エリートの塊のような官僚の崩壊がとりざたされているが、彼らが極めて美意識が低いことと無関係ではないと思う。

18. 6月 2020 · June 18, 2020* Art Book for Stay Home / no.17 はコメントを受け付けていません · Categories: 日記

『幻の美術館 甦る松方コレクション』石田修大(丸善ライブラリー、1995年)

2020年1月3日から3月15日まで、愛知県美術館で開催予定であった「コートールド美術館展 魅惑の印象派」は、新型コロナウイルス感染拡大防止のため3月1日をもって急遽閉幕となった。
多くの人の生きる歓びを奪う形で美術館、コンサートホール、劇場、映画館が閉館を余儀なくされた。

私は幸い1月3日に本展を観ることができた。
ロンドンのコートールド美術館は、イギリスが世界に誇る印象派・ポスト印象派の殿堂。
美術館の改修工事のために、マネ、ルノワール、セザンヌ、ゴーギャンなどの代表作が展示された。

美術館の創設者サミュエル・コートールドはイギリスの実業家で、卓越した審美眼を持つコレクターでもあった。
1920年代を中心に精力的な収集を行い、1932年、ロンドン大学に美術研究所が創設されることが決まると、コレクションを寄贈。研究所はコートールド美術研究所と名付けられ、その展示施設としてコートールド美術館が誕生した。

私がここで注目したいのは、美術作品のコレクターという、鑑賞者とは異なるもう一つの眼である。
作品を鑑賞するときに、コレクターの視点に立ってみて、作品のどこに魅力を感じてコレクションをしたのだろうと考え、その答えを見つける歓びが個人コレクションの魅力である。

さて本著『幻の美術館 甦る松方コレクション』に紹介されているのは、1910年代から20年代にかけて、私財を投じて西洋の絵画や彫刻を買い集めた松方幸次郎のコレクションの話である。
松方幸次郎は川崎造船所(現在の川崎重工)初代社長で、一人でも多くの日本人に西洋美術を見せたいという強い情熱を持っていた。松方コレクションは戦中・戦後の激動期にその保存に悲劇の運命をたどった“幻のコレクション”である。フランス政府から寄贈返還されたものを基礎に、西洋美術に関する作品を広く公衆の観覧に供する機関として、1959年、国立西洋美術館として開館した。

大小様々なコレクションがあるが、それがどういうビジョンで集められたものであるか、芸術視野を通じて判断されることは美術史に大きな意味を持つ場合がある。
今あらためて、「松方コレクションを基礎とする国立西洋美術館」という呼び方をあえてしてみる必要があるだろう。

 

16. 6月 2020 · June 16, 2020* Art Book for Stay Home / no.16 はコメントを受け付けていません · Categories: 日記

『美のジャポニスム』三井秀樹(文春新書、1999年)

ジャポニスムは、19世紀以降ヨーロッパに渡った日本の浮世絵などが印象派やアール・ヌーヴォーに影響を与えた現象である。

そして1920年代にはそのブームは終わったとされる。

つまり美術史において、一時期のブームとしてとらえられているわけである。

しかし『美のジャポニスム』では、狭義の美術史のみで捉えず、現代デザインのあらゆるところで「日本の美の表現特性と造形原理は溢れている」と説いている。

アール・ヌーヴォーは、19世紀末から20世紀初頭にかけてヨーロッパを中心に開花した国際的な美術運動で、「新しい芸術」を意味する。

花や植物などの有機的なモチーフや自由曲線の組み合わせによる従来の様式にとらわれない装飾性を指している。

つまりそれはデザイン領域において顕著に行われた運動であるわけだが、その後のデザイン表現におけるジャポニスムについては美術史から消えている。なぜなのか。

それは、20世紀以降のデザインが爆発的に大発展を遂げ、美術史の領域からはみ出してしまったことに起因している。

デザインに造詣が深い著者が、20世紀以降のデザインにおけるジャポニスムの問い直しをおこなったのが本著である。

大ブームというのは、ブームとともに消えるわけではなく、吸収される形で変容していくものである。つまりデザインはジャポニスムと一体化していったということである。

「欧米の美術史研究におけるジャポニスムの影響の過小評価の要因として、(中略)欧米の研究者は、二つの大戦を挟んで日本の帝国主義に反発し、欧米の伝統的美術の優位性という愛国的精神によって、アール・ヌーヴォーへの日本美術の影響を全面的に認めようとしない精神的土壌が出来上がってしまったのではないか」と述べていることは非常に興味深い。

私たちが美術史と呼ぶものは、ギリシャからローマ、フランスを中心とした西洋美術史を中心としたものである。

20世紀以降が主となるデザイン史は、日本のイニシアチブを除いて語ることは不可能であることを考え合わせると、ジャポニスムにおける著者の捉え方は極めて説得力に満ちている。

グラフィックデザイン、ファッションデザイン、プロダクトデザイン、建築における日本のデザイナーの国際的活躍は、広く世界に認知されていることを考え併せた上で読みたい。

11. 6月 2020 · June 11, 2020* Art Book for Stay Home / no.15 はコメントを受け付けていません · Categories: 日記

『猪熊弦一郎のおもちゃ箱 』監修:丸亀市猪熊弦一郎現代美術館、公益財団法人ミモカ美術振興財団(小学館、2018年)

この本は著者が具体的に示されていない。
どういう本かと問われれば、画集、絵本、エッセイ、伝記、そのどれでもあって、どれでもない。
前半は猪熊弦一郎の人生を追うように物語になっている。語り手は、ゲンおじさんのことが大好きでとても良く知っている姪のような立場でやさしいインタビューになったり、ひとり語りになったりする。
奥付を見ると、文章/小宮山さくらとなっているが猪熊弦一郎との関係は具体的にされていない、著者でもない。そしてときどき猪熊弦一郎の言葉のメッセージが挿入してくる。小宮山さくらさんは、やさしいファンを代表する形になっている。

後半は、猪熊弦一郎のコレクションやアトリエ風景が写真で紹介されていて、それについて本人がエッセイ風に紹介している。

猪熊弦一郎の作品は結構多く紹介されているものの、画集と言った体裁ではない。
一言で言えば「猪熊弦一郎さんとはこんな素敵な人」という本である。
画家というのは描かれた作品が全てである、という考え方がある。それは誰もが否定することができない。画家の人格を通して絵を鑑賞するというのは間違っている。ときには作者不詳であっても絵の価値が変わるものではない。

その上で、一人の画家の人生がどのようなものであったか、どのような人物であったか知りたいと思う。そこから描かれた絵の鑑賞を深くするということも愉しいことである。
猪熊弦一郎は、会ったこともない作家ではあるけれど、この本を通じて「猪熊さん」と話しかけながら絵を観ると「この絵はね・・・」って絵の中から話しかけてくれるような気がする。

09. 6月 2020 · June 9, 2020* Art Book for Stay Home / no.14 はコメントを受け付けていません · Categories: 日記

『両性具有の美』白洲正子(新潮社、1997年)

「両性具有の美」の書名で阿修羅像の表紙、著者が白洲正子。これはもう美の究極を紐解く一冊であることが確信できる。

両性具有とは、男女両性を兼ね備えた存在。転じて男女を越えた性の、あるいは性を持たない存在、男女中間の存在と曖昧多様な解釈がある。

芸術が想像、妄想、思想、理想という現実を超えた存在であるとするならば、男性でも女性でもない存在は、芸術と深く強く関わる存在である。

ギリシャ神話では、ニンフのサルマキスに恋されて強制的に一心同体にされたヘルマプロディートス、後に豊かな乳房を持った少年、あるいは男根を持った女性などの形で芸術表現のモチーフとなっている。

また日本神話の天照大御神は中世の書物「日諱貴本紀」で両性具有神として描かれている。

神話の世界でお墨付きの両性具有は、小説、映画、マンガ、アニメーションにおいて現代でも多く使われるテーマである。突然男女が入れ替わる、男性が女性に、女性が男性になるという設定は、まずありえないがゆえに想像を掻き立てる。女装、男装などは歌舞伎、歌劇において大前提であり、女装家、男装家なる職業とも言いがたい自己アピールがメディアを賑わす昨今である。

本著は、日本書紀から公家、武家社会、仏教、絵巻、能、南方熊楠にいたる両性具有の怪しき魅力を白洲正子という眼力で紐解いている。