30. 5月 2021 · May 29, 2021* Art Book for Stay Home / no.66 はコメントを受け付けていません · Categories: 日記

『個人美術館への旅』大竹昭子(文春新書、2002年)

個人美術館というのは、一人の作家の作品を収蔵した美術館のことである。したがって美術館の名前にはその収蔵作家の名前が入っている。清須市はるひ美術館の近くにも稲沢市荻須記念美術館、一宮市三岸節子記念美術館がある。

本書には12の美術館が収録されている、作家は萬鉄五郎、土門拳、富岡惣一郎、川上澄生、小杉放菴、岡本太郎、秋野不矩、熊谷守一、植田正治、香月泰男、イサム・ノグチ、猪熊弦一郎、大変魅力的な顔ぶれだ。

著者は個人美術館の魅力として、「いろいろな作家のものを一同に集めた県立美術館などに比べると作品の量が少なく、展示室を三つ、四つまわるともうロビーにもどっている。この小ささがとても都合がいい。はじめはあっけなく思っていても、しだいに、作品とじっくりむきあうには、これくらいのサイズが適当であるのがわかってくる。」作品と向き合うとしているが、作家と向き合うといった方がふさわしいだろう。一人の作家が人生をかけて何を考え、どういう創作にたどり着いて行ったのか、その人生と向き合うことになる。

そしてもう一つの個人美術館への旅の魅力は、その美術館が作家の郷里であったり、アトリエのあった場所であったり、人生の大半を過ごした土地だったりと、ゆかりのある場所に建てられていることが多い。そうした点でも作家と向き合う興味深い関わりとなる。

この著書は旅行記でもあり、また各館ごとにその美術館の詳しいデータが記されていてガイドブックにもなっている。「個人美術館への旅」は、一人で出かけることが望ましい。一人で出かけて美術館で作家と出会うのだ、作家と二人だけの濃密な時間を過ごすという贅沢な旅となるだろう。

21. 5月 2021 · May 21, 2021* Art Book for Stay Home / no.65 はコメントを受け付けていません · Categories: 日記

『アート・マネージメント 画廊経営実感論』佐谷和彦(平凡社、1996年)

アートマネージメントとは何か、一般には「美術、音楽や演劇などの芸術活動を支援する際の方法論。」と理解されているが、それは間違っていると思う。そもそも芸術活動が精神の純粋な発露で、経済活動とは無縁なイメージを有していることから支援という言葉が使われてしまっている。

美術手帖のART WIKIによると「芸術・文化活動と社会をつなぐための業務、もしくは方法論やシステムのこと。確たる定義をもつ職種名というよりは、アートに関わるマネジメント業務全般を指す用語として広い意味で使われる。」こちらの方が正しいだろう。

アート・マネジメントは1960年代のイギリスとアメリカでほぼ同時期に使われるようになった概念で、美術史、美術論から考えればいかに最近の用語であるかがわかる。大学では1990年に慶應義塾大学で初めて「アート・マネジメント」の名を冠した講座が開設された。その講座に年2回ゲストスピーカーとして講師を務めたのが、佐谷画廊の佐谷和彦、著者である。美術と社会をつなぐ最もリアルな現場が画廊である。画廊では取り扱う全ての美術作品に価格設定を行い、作品の売買を行う。アート・マネージメントは必ず売買と関わるものではないが、そのことを無視して多くの芸術・文化活動は成り立たない。美術館で開催される展覧会では価格表示が無いが、所蔵作品は購入金額というものが存在するし、寄贈による場合でも想定価格というものがある。また借用による展示であっても、作品には保険がかけられる。その際作品価格に対して保険額が設定される。

本書『アート・マネジメント 画廊経営実感論』は慶応大学での講座ノートをベースに書かれたものである。著者の立場から「画廊経営論」としても書かれている。因みに私も「スペースプリズム」という小さな画廊を30年以上経営しているが、その経験から鑑みて本著は細部に渡ってリアルであり、具体的に作家、作品を例にとって説明が行われている。作家、美術愛好者にとっても大変興味深い内容となっている。

画廊を経営していると時々相談を受ける、「美術が好きで画廊を開設したいのだけれど、どう勉強したら良いでしょうか、作家を紹介していただけますでしょうか」というもの。「儲からないですよ」と言えば「儲けは気にしません、社会に文化貢献できれば」という答え。文化貢献するためには、作品を買い上げて作家活動を支援するというシンプルな方法がある。その前に先ず本書をお読みすることをお薦めする。

12. 5月 2021 · May 12, 2021* Art Book for Stay Home / no.64 はコメントを受け付けていません · Categories: 日記

『アートレス』川俣 正(フィルムアート社、2001年)

川俣正は現代美術作家である。絵を描かない、立体物を造るが凡そ彫刻と呼べるものではない、立体作品とも呼びにくい。そのインスタレーション作品は世界を舞台に発表されてきたが、主に仮設設置。美術館にコレクションされているものは、プロジェクトのプラン、模型である。川俣正の作品がコレクションされているとは言えない、考えがコレクションされているのである。本著名が「アートレス」なのは、そうしたバックボーンからなのか。本書が発行された当時は東京藝術大学美術学部先端芸術表現科教授であったが、あらゆる意味で「どうだ、芸大の教授だ」という雰囲気にはほど遠い。

本文「まえがきにかえて」では、冒頭に「自分の行っている仕事を他人に紹介する時、なかなかうまく説明できないもどかしさをいつも感じる。『これは現代美術です』などと言って、他の美術との住み分けをはっきりさせ、現代美術ということで何だか訳がわからない作品を、わからないということが、そのまま現代美術ではステイタスになってしまうことの凡庸さに、自分は付き合いきれないところがあるし、コンテンポラリー・アートなどという洒落た言葉の中にある、何か上滑りするような気持ちの悪さの中にいたいとは思わない。」これが世界を舞台に活躍する川俣の本音であると思う。なんと謙虚で正直な言葉だろうと思う。この書き出しで私は本著をグイグイと読みすすめることができたように思う。現代美術作家の自己本位な書き連ねなど、どれだけ真剣であっても一冊お付き合いしたいとは思わない。

また「『アートレスの提言』。それはあくまでも既存の美術言語や流行、スタイル、例えば『綺麗なもの』、『美しいもの』、『美的価値』や社会的な規範からなる常識的言語に裏打ちされた『美』なるもの全般に対する、懐疑を意味している。」つまり既存の価値、意味、約束に対して否定することより始まるアートということか。

作品の多くが建築用板材を並べたり組んだり、立ち上げてまるで工事現場の様相であるからか、川俣正の容貌は大学教授というよりも工事現場監督のようで、いつも「これがアートか、これでもアートか」叫び続けているようだ。そういう問いかけに対して頭でも心でもなく、身体で納得し続ける川俣正がいつも気になる。

02. 5月 2021 · May 2, 2021* Art Book for Stay Home / no.63 はコメントを受け付けていません · Categories: 日記

『NHK 美の壺 柳宗悦の民藝』NHK「美の壺」制作班 編(日本放送出版協会、2009年)

民藝に関する柳宗悦による著作は膨大にあって、緻密な説明、解説、紹介がなされている。そして根本に流れる考えは「民藝とは何か」である。一見簡単そうに思える民藝の意味、民藝の美しさは、感覚的には理解可能なものであるが、言葉にするには極めて難しい。領域的に近いものとして、工芸、デザインが挙げられるがそれとは異なるものである。

NHK BSテレビでは、その壺を3つ紹介して説明する。「柳宗悦の民藝」においても、壱のツボ「てらいが無いから美しい」、弐のツボ「自然の意思を感じよ」、参のツボ「使い込むほど美しい」としている。的を得たツボであるが、壱と弐は極めて難しい。「てらいが無い」ということはモノを作る上で極めて困難である。上記の工芸、デザインにおいててらい無く造り出されたものは殆どないと言える。また美術作品で言えば、てらい無く作り出されたとしたら、それは芸術ではないとさえ言える。芸術において作者の想い、思想、感情、狙い、喜怒哀楽がてらいも含めてどのようなものであるかが鑑賞者の共感を生むからである。民藝はそこを否定する。従って無名であること、作者は民(庶民、農民、常民、平民)であることが民藝における「てらいが無い」を生み出す。弐のツボ「自然の意思を感じよ」においても、この自然の意味は現在我々の認識する自然ではない。近い言葉で言えば風土を指している。柳宗悦らが提案して作られた日本民藝館には柳宗悦の審美眼を通して蒐められたものが17,000点に及ぶ。アイヌ、沖縄、東北、朝鮮、そして都市から遠く離れた日本奥地。つまり暮らしそのものが風土に根ざしたものであって、民藝が伝えられ残されていたのである。

現代においても民藝と呼ぶに値するものはあるが、極めて少ない。民藝が息づく民家と暮らしがほとんど失われてしまったからである。それでも民藝精神が生き残るのは柳宗悦が民藝の美を伝え、残したからである。