「いい作品」って何でしょうか?
美術館で働く人間でありながら(だからこそ?)、その問いに答えるのはとても難しい。
「アーティストシリーズVol.100瀨川寛展」の関連イベント、瀨川寛×高北幸矢(当館館長)クロストークで、作品を審査することについての話が出たので、少し取り上げたいと思います。
瀨川さんの作品《耕地/中標津町》は、公募展「清須市第10回はるひ絵画トリエンナーレ」で審査員賞〈高北幸矢〉を受賞しました。
応募総数554点のなかから選ばれた1点。
私は過去2回の審査会に立ち会い、審査員によって作品が選ばれていく過程を目の当たりにして、その都度「いい作品ってなんだろうなあ」と考えさせられました。
そもそも個人の表現に優劣をつけること自体ナンセンスであるという意見もありますが、客観的な視点を得られたり、制作のモチベーションにつながったりと、コンクールにもそれなりの役割と意義があります。今私たちが見ている過去の「名画」も、誰かがどこかで「いい作品だな」と評価したからこそ保存されてきたわけですからね。
しかしその「いい作品だな」と思う基準は、時代や、地域や、人によって当然違います。美術館で見られる作品は「いい作品」なんだろうけど、どこが「いい」んだろう?と思うことは誰しもあるのではないでしょうか。良さがわからないのに「いいもの」として押し付けられる感覚が美術館嫌いを引き起こすのもわかります(自戒を込めて)。
コンクールとなると、それこそわかりやすく「賞」なんかが付けられるので、その作品に絶対的な価値があるように思われがちです。が、作品を選ぶのも人間です。もちろん客観的な判断ができる人材が任を担いますが、価値を明確な数値などに表せない以上(作品評価額などはまたややこしくなるので置いといて)、主観的な好みや考えを排除することは不可能です。というか、それでは審査員の意味がない。アートのコンクールでは「この審査員に見てもらいたい!」という動機で応募する作家さんも多いため、本公募展ではとくに審査員の個性に重きを置いてきました。
上位の賞であっても、必ずしも全会一致で決まるわけではありません。意見が割れて議論が平行線になることもあります。前回の公募で「審査員賞」という個人賞を新たに設けたのも、多数決でない評価方法が必要ではないかという提案を審査員から受けたことがきっかけでした。確かに、10人がなんとなくいいな、と思う作品と、たった1人が涙を流すほど感動した作品を比較して、多数決の原理を採用するのは・・・どうでしょうか。
また、トークで高北館長から述べられたのは「応募されたたくさんの作品のなかで求められるのは他と違う個性」ということです。当然といえば当然ですが、やはり美術の表現にも流行や類似はあります。ましてや数百点の作品を一度にすべて目視するなかでは「他の作品とは違う良さがある」ことが評価ポイントのひとつとなります。技術的に優れていたり、見た目にインパクトがあったりすることはとても素晴らしいですが、そういった要素を備えている作品はたくさんあるので、コンクールにおいてはどうしても本質的な評価ポイントにはなりにくいんですね。
言い換えれば、コンクールでの評価は相対的なものだということです。審査員によって見方は違うし、作品のラインナップ、置かれた環境によって結果が変わることは大いにあり得ます。ここでの「いい作品」とは、あくまで特定の条件下においてということであり、だからこそ具体的な価値をもつのだと思います。
さて、グーグルアースなどの衛星画像をもとに俯瞰した大地を描く瀨川さん。写真(デジタル画像)を用いた絵画は現代では珍しくありませんが、多くはモデル・モチーフの記録のためであったり、現実の代替として位置付けられます。一方で衛星画像は、現実の人間には物理的に困難な視界(地球を真上から見下ろし、静止したり自由に拡大/縮小したりする)でありながら手のひらで操作できる日常的なイメージでもあります。現実の風景よりもSNSなどで見る写真画像のほうがむしろリアリティを感じる現代の私たちにとって、見慣れたイメージとしての衛星画像を描いた瀨川さんの作品は現代ならではの風景画と言えるのではないか。そういった写真と絵画の関係性を想起させるオリジナリティが評価されました。
瀨川さんの表現意図は評価ポイントとはまた別のところにあるのですが、第三者が作品を見て思考を広げたり、多様な解釈をすることができるというのも、現代アートにおいては重要な要素かもしれません。
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http://www.museum-kiyosu.jp/exhibition/vol100segawa/