現在開催中の企画展「清須ゆかりの作家 阿野義久展 生命形態 ―日常・存在・記憶―」では、関連イベントとしてワークショップ「心のなかの形とわたしの風景」をおこないました。
心に思い浮かんだ形を粘土でつくり、それを見ながら絵具でスケッチするというシンプルな工程で、どなたでも気軽に取り組める内容です。
愛知県立芸術大学の先生である阿野さんが大学の授業でおこなっている手法のひとつでもあります。
絵画の授業なのに、なぜ粘土造形をするんでしょう?
そこには絵画制作につきまとう「何を描くか」という問題が関わっているようです。
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阿野さんのこれまでの制作を振り返ると、5~6年くらいのスパンで描くモチーフや描き方が変化しています。
阿野さんの場合、非日常性を感じる特定のモチーフに出会うとしばらくそれをテーマに描き、その非日常性が薄れてくる=日常になじんでくると再びモチーフが変化していくようです。
そこで思考されるのが、次は何を描くのか、なぜ今これを描くのか、という問題です。
描きたいものを描けばよい、と言ってしまえばそれまでなのですが、頭や心の中にもやもやとある何かを表現するって、意外と難しいことです(日常生活でもしかり)。
絵を描くことのできない私は、白紙を渡されて「自由に絵を描いてください」と言われても何を描けばよいのか途方に暮れてしまいます。しかし阿野さんのワークショップに実際に参加してみたとき、粘土を渡されて「自由に何か作ってみてください」と言われると不思議なことに手は動くんですね(久しぶりの粘土の感触が気持ちよかったというのもあります)。
そのまま「〇〇を作ろう」という意識もないまま適当に粘土をこねていると、何か気になる形ができてくる。知っている形に見えてきたりもするけれど、とにかく名前のない「何か」がそこに生まれてくるわけです。
これらをもとに絵具で絵を描いてみると、白い粘土からは想像できなかった色彩やそれぞれの形の関係性が紙の上に構成されていきます。
参加者の様子を見ていると、粘土をモデルに描いているというよりも、粘土あそびの延長で筆が動いているような印象でした。阿野さん自身も「粘土を見ながらでもいいし、見なくてもいい」とおっしゃっていて、絵画のモチーフとして粘土があるわけではなく、粘土を使って表現したときの感覚そのものが絵画に活かされるのかなと感じました。
(ちなみに絵具ではなく鉛筆でデッサンしようとすると、私は途端にその行為がつまらなくなってしまいました。「上手に描きたい」という欲が出てしまったからかもしれません。)
また粘土完成後と絵画完成後にそれぞれ、自身が表現したことについて発表する時間が設けられ、作品について「言葉で表現して、他の人に伝える」ことも重要なプロセスとして組み込まれていました。
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一般的に美術作品は、まず明確な作家の意図があって、それに従って計画的に作られているというイメージがあるかもしれません。
もちろんそのようなケースもありますが、表現とも呼べないような行為を重ねるうちに思いもよらなかったものができあがったり、さまざまな表現方法を経るなかで自分の内側にあるものが無意識ににじみ出てきたりすることもあるようです。
阿野さんは今では絵画を専門としていますが、30代の頃は立体作品を作っていました。廃材や流木、コーキング材などを組み合わせた作品はとくに具体的なモチーフが念頭にあったわけではありませんが、改めて見ると学生時からの人体デッサンの描写などと呼応するところがあると言います。平面と立体、紙とキャンバスなど異なる媒体を往還することで表現が深まっていくこともあります。
また展覧会のタイトル「生命形態」は、個展開催にあたりこれまでの制作を客観的に振り返ってみたときに浮かび上がってきたテーマということで名付けられたものです。画風が変化しても貫かれる軸のようなものが改めて見出されたと言えるでしょう。
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