01. 10月 2026 · September 28, 2026* Art Book for Stay Home / no.193 はコメントを受け付けていません · Categories: 日記

『暗幕のゲルニカ』原田マハ(新潮文庫、2018年)

原田マハは、小説家で本著も小説である。ただ早稲田大学第二文学部美術史科を卒業し、その後森美術館設立準備室、ニューヨーク近代美術館勤務を経ている。既に著書も多く70冊を超えている。美術というこれまでに多くない小説分野で、著者のキャリアは無尽蔵にテーマがあると思われる。

『暗幕のゲルニカ』は、あのピカソの『ゲルニカ』のタペストリーのことである。『ゲルニカ』を複製したものである、ピカソが監修したレプリカでニューヨーク国連(国際連合)本部に飾られている。それは国連があるべき姿を示唆し、象徴的な存在としてある。

著者の言葉「本作は史実に基づいたファクションです」とあり、架空の人物と実在の人物が登場する。架空の人物は特定のモデルは存在しないという。つまりフィクションであるがノンフィクションとしてのリアリティをもったものである。『ゲルニカ』はスペイン、マドリッド、レイナ・ソフィア芸術センターに収蔵され、常に公開されている。その『ゲルニカ』のタペストリーもニューヨーク国連本部にある。何より小説のもう一つの核は、2001年9月11日のアメリカ同時多発事件、世界貿易センタービルの空爆である。

ピカソが『ゲルニカ』を完成させる1937年から9.11を超えて2003年まで、パリとニューヨークを行き来してのドラマは、ノンフィクションを核としているからこそ緊張感を持って最後まで読み続けることが出来た。文庫本497ページの長編である。

 

12. 9月 2026 · September 12, 2026* Art Book for Stay Home / no.192 はコメントを受け付けていません · Categories: 日記

『鮮烈なる断片―日本の深層と創作現場の接点』中村英樹(杉山書店、1984年)

著者中村英樹は、私が務めていた大学の先輩で、本著が出版された1984年は助教授(助教授は2007年の法改正で廃止、准教授に名称変更)で44歳、私は34歳専任講師であった。親しくさせていただき、酒席を共にすることも度々あった。本著は初めての著作で、同時期に同じ杉山書店より『日本美術の基軸―現代の批評的視点から』が出版されている。ずいぶんと気合の入った時期であったと思われる。

「現代美術論は難解だ」という多くの声がある。これは現代美術思想を牽引する雑誌「美術手帖」(美術出版社)に掲載される美術論評に対する声であった。現代美術論が難解な理由としては、現代美術が難解ということと同義で、難解な現代美術をわかりやすく解説するのが現代美術論であると認識されていたことにそもそも問題がある。理論はあくまで解説ではない。現代美術作品と現代美術論は互いに切磋するものであり、互いが補い合うものではない。現代美術が難解であるのは、作品や論評のせいではない。私たちの教育を受けた美術に対する概念と異なるもの、対抗するものが現代美術であるので、私たちの教育を受けた美術概念で理解することは極めて難解なことは当然である。例えば「美術は美しいものである」という概念があるが、現代美術は「美しいものという概念を殊更否定して存在する」。難解な理由はそこから生まれる。

その上で本著はやはり難解である。本著の初読より40年が過ぎて再読するにあたり、果たして難解かどうかを頭において読んだ。40年の私の知識の進化は残念ながら殆どなかった。本著の難解さは読者の知識レベルもさることながら、著者の文章表現にもあるということである。向井美恵作品についての一文を紹介する。「感覚的にそれを純化するものだろうか。ときに蒸気機関車の動輪のごとくダイナミックに連動するシステムが登場する。一方の変化につれて変わる関数に似ている。ただし、この複眼的なシステムはカオスに網打つ仮の手立てであり、宇宙の一端を見る天体望遠鏡、肉眼の及ばぬ極小を明らかにする電子顕微鏡のようなものであって、それ自身を目的とはしていない」。つまり、一文が長く、説明が多重に行われており、その形容は互いに肯定しあわない、ときには否定する余韻を残している。具体的な例をあげてはいるが、その具体例は抽象性を意味する事が多く、読者を困惑させる。一方で向井美恵作品そのもの持つ問題も孕んでいるという厄介な文である。

著者はその後1990年に、『北斎万華鏡―ポリフォニー的主体へ』(美術出版社)を出版、こちらは小説、随筆の形を取り、北斎に関する評論を展開した。こちらは難解とはほど遠い見事な著書となっている。

26. 8月 2026 · August 26, 2026* Art Book for Stay Home / no.191 はコメントを受け付けていません · Categories: 日記

『利休 破調の悲劇』杉本苑子、写真:大西成明(講談社、1990年)

出版された1990年は、利休没後400年ということで、利休ものの本、映画が多く生まれ、当時私は40歳であったが、利休の映画を観、本を何冊か読んだ。中でも深く感銘を受けたのが本著である。あれから35年が過ぎて、再読した。

利休に関しては、史実にもまして逸話が多く、その一つ一つに著者は鋭い考察を与えている。その考察が興味深く、特に利休の育った堺の町について、茶というものがどういう形で武士の嗜みとなり、堺から茶人が多く出たのか。津田宗及、今井宗久らを出し抜いて後輩の千利休が、信長、秀吉に取り入ったのか。単に茶人として優れていたという単純なものではない。そこにはビジネス的才覚と併せ持った美意識が求められた。

利休の逸話の中で最も興味深いのは、秀吉から命ぜられた切腹であって、その史実に対しての理由が明確にされていないことである。いくつかその推測を紹介し、推測に過ぎないことを述べた上で、著者の推測は秀吉の思惑が堺から博多に移ったことであるという。それは天下を収めた後、朝鮮に打って出る思惑のもと、堺の利休は不要となったこと、博多の商人の登用にはその証を示すことが早道であった。

本著は、大西成明の写真と合体するような形となっており、小説ではなく、歴史書でもなく、著者の推論で終始している。しかし利休の関連史跡、事物をドキュメンタリー大西の写真と併載することで、ドラマチックな利休論となっており、その編集デザインも大きな魅力である。

02. 8月 2026 · August 2, 2026* Art Book for Stay Home / no.190 はコメントを受け付けていません · Categories: 日記

『青春のギャラリー 気づき・学び・励み、自身を生きるアーティストたち』中山真一(風媒社、2026年)

B5版、201ページのボリューム、重い。青い表紙の真ん中に『青春のギャラリー 気づき・学び・励み、自身を生きるアーティストたち』。内容は想像されるが、特定される何かがない。青いカバー、青春だから青なのか、そういう青ではない。学園ドラマやスポーツで展開される爽やかで明快な青春ではなく、陰鬱で深い広がり、過ぎてみればやはり青春と呼べる無知、才気、乱暴、弱さ、苦さ、それでも志すものがあるゆえの強い想い。どんよりとした深い海のような青いカバー、そこには上手くいかない青春だからこの青が選ばれたのかも知れない。

熱筆(ねっぴつ)。

読後、私の感想はこの一語に尽きた。著者中山真一さんを親しく知る方、あるいは前著『愛知洋画壇物語』(風媒社、2011年)を読まれた方は、誠実で細やかな気遣いと確かな知識の積み重ねの著をイメージされるかも知れない。私もそのようなイメージで本著を開いた。目次に26名の作家名が並んでいる。名古屋画廊社長である著者として、予想される作家も並んでいるが、その中に佐藤可士和、千住博、村上隆など「おっ」と思わせる作家も並ぶ。

熱筆、とにかく文章が熱い。特にページ数も多い水谷勇夫、笠井誠一、村上隆らはそれぞれで一冊成就できるのではないかと思われる。つい「中山さん熱いなぁ」と読みながら言葉が出る。26名の作家は、全て本人、もしくは遺族への丁寧な取材と多くの資料によって書かれている。そこからの源泉が著者に火をつけて、かくも熱く感銘を起こさせるのだろう。著者の美術作品への愛とアーティストへのリスペクトが研ぎ澄まされた言葉の一つ一つに籠っている。

『青春のギャラリー』は、26名26の無知、才気、乱暴、弱さ、苦さ、それでも志すものの強い想いが描かれ、飾られたギャラリーなのだろう。

15. 7月 2026 · July 15, 2026* Art Book for Stay Home / no.189 はコメントを受け付けていません · Categories: 日記

『中川一政文選』中川一政(筑摩書房、1983年)

本著後記に「私のこの書は『中川一政文集』五巻の中から適当に抄録したものである。」とある。適当にというのは著者のテレもあるだろう、全五巻からというのは画家としては驚異的な著作量である。他の著作も含めて中川の著作は45冊ある。中川はもともと文学の分野で活躍しており、ふとしたことで洋画家に転向した。転向後も文を書き続けた結果である。
画を売るために描いているわけではない。私の画は売れないし、売るために描こうとは思わないという。それでは生活が成り立たないので、文を書く。文を書いてお金がいただけるのでありがたいと。それで書いた著作が45冊、中には詩集、短歌集、訳書『ゴオホ(ゴッホ)』もあるが、多くはエッセイである。エッセイであるが、美術評論が根幹にある。少し長いが、本著より私の大好きな一文を紹介する。(現代語に変更)

「私の画は役にたたないのだ。おいそれとすぐ役には立たないのだ。 戦争だから戦争の役にたつような画をかけと云って来たって、もともと戦争の為に画を勉強して来たのではないのだ。

役にたたなくとも不名誉とは思わない。それでは忠君愛国ではないと云ふかも知れない。忠君愛国も代用品になったと見える。本当の忠君愛国は眼に見えず、言葉に出でず、形がなく、もっと静かな、自由で広大無辺のものである。

とりあげていくらいくらと云う夜店の玩具のようなものではない筈だ。

私達画かきがますます勉強したら、ますます役に立たなくなるだろう。

それは前にも云ったように私達の仕事が前人未踏であるならば、大衆からはなれて私達の仕事は一人一人孤独になってゆく性質を持っているからである。

大衆がいくら聡明でも、勉強する画かきには追付いて来れない。それだから大雅は生涯貧しく、セザンヌは生涯孤独であったのである。」

29. 6月 2026 · June 30, 2026* Art Book for Stay Home / no.188 はコメントを受け付けていません · Categories: 日記

『名画の言い分』木村泰司(ちくま文庫、2011年)

『名画の言い分』そそられる著名である。私たちは絵の解釈を巡ってあまりに勝手過ぎないだろうか、と日頃感じている。その反論として名画には、名画の言い分があるだろう。正確に言えば名画の制作者である画家の言い分があるだろうということだ。

立ち読みして、「はじめに」を読む。いきなり「美術は見るものではなく、読むものです」とある。これは西洋美術史を専門とする著者のモットーであろう。現代の日本では、やたら「感性で絵を見る」―好きか嫌いか、感動するかしないか、といった尺度で見るーなどというが、感性で近代以前の西洋美術を見ることなど不可能である。と論を展開する。

ここまで読んで本著を持ってレジに向かった。私も近代以前の西洋美術は、知識が絶対必要と考えているからだ。まず『キリストの磔刑』という多くの彫刻や絵画がある。当然キリストとは何者なのか、なぜ十字架に磔られているのか、なぜ処刑されるのか。解釈に誤りがあると理解不能である。レオナルド・ダ・ヴィンチなど多くの画家が描いた『受胎告知』にしてもその状況を知る必要がある。

逆に日本の絵、有名な北斎の『富嶽三十六景 神奈川沖浪裏』は、感性で見てもおもしろい絵である。しかし富士とはどういうものなのかの知識は、絵を理解する上で重要なことだ。日本を訪れたことがなく、日本に関する知識がないと、富士は海に浮かぶ小さな島と見るかもしれない。私たちは富士が日本一高い山で、どこにあるのか、したがって嵐の沖から陸を眺めて見えるのである。そして富士は信仰の山でもあって、船はそこに救いを願いつつ波に揉まれているのである。富士の大きさから、いかにこの波が大きなものであるか、私たちは理解するのである。

本著は様々な「名画の言い分」、即ち名画の客観的な解釈が書かれている。「実はそうだったのか」と教えてくれる。

11. 6月 2026 · June 10, 2026* Art Book for Stay Home / no.187 はコメントを受け付けていません · Categories: 日記

『うずまきは語る―迷宮への求心性』千田稔(福武書店、1991年)

新聞の新刊紹介で本著を購入した頃は、私の作品はすべて抽象で創作意欲の絶頂期にあった。絶頂期というのは作品のレベルや評価の問題ではなく、抽象表現がおもしろくて仕方なかったのである。そしてその抽象図像は、円錐形、紡錘形、円、楕円、円環、スパイラルに発していた。なぜそのような形に引き寄せられるのか、言葉にすれば「命の源、宇宙の運動」と位置づけていた。しかしそのような自己陶酔イメージでは自他ともに高い説得力の持つものではなかった。

そんなとき本著と出会った。うずまき、スパイラル、円運動について、ありとあらゆる観点から紐解いている。宗教あるいは信仰、天文、地勢、民族、生物、史跡と歴史、都市と集落、心理学、そして芸術。芸術において取り上げられているのは、ゴッホ、ダビンチ、曼荼羅(宗教)、縄文土器、銅鐸、そして舞踊。

美術を理解するために美術の本を読む、というのは直接的な動機であって、否定されることではないが、どうしても浅く狭い。まして作家が見識を広めるべきはそこにはない。そこにあるのは全て先駆者たちの功績である。「何のために描くのか、創るのか」を考えたとき、美術から離れる必要がある。離れて何を学ぶのか、自我との向き合いしかない。それは大きな苦しみである。

そんなときこの本に出会え、自分の考えていることに客観的分析を加えることができた。著者は地理学者、地理学から離れ渦に巻き込まれた著者の発想に感服した。

26. 5月 2026 · May 26, 2026* Art Book for Stay Home / no.186 はコメントを受け付けていません · Categories: 日記

『いちまいの絵 生きているうちに見るべき名画』原田マハ(集英社新書、2017年)

目当ての作家の本を探しに愛知県芸術文化センターライブラリーに、頻繁に出かける。また栄で時間が余ったらやはりライブラリーで過ごす。

この日は、なんとなく読む本が見つからないかとぶらぶらライブラリー。目に飛び込んで来たのは、「いまいちの絵」。何だそれはと凄く心を掴まれて、見つめ直せば「いちまいの絵」。一枚だったら漢字だろう、と突っ込みつつ手に取った。

原田マハか、まあ間違いのない著者。少し読んでみる。知っている作家の知らないことが書かれている、と早速借りて来た。

数ある評論とは全く異なるアプローチ、そこには著者と、一枚の絵との出会いのドラマが書かれている。読者は、著者の気分に便乗して絵と出会う、そのような導入である。したがって絵の批評というよりは、感想であり、著者の主観である。しかし、どのような名批評であろうと、批評は常に主観である。論を巧みに展開し、資料を並べても所詮主観を否定することはできない。その絵の作者ではないのだから。

その上で本著は、旅行記であり、エッセイであり、心地良い共感をくれる絵画の批評でもある。

例えばポール・セザンヌの《セザンヌ夫人》について、「彼女が身につけている服――長い丈のワンピースだろうか――は、一見ごわごわした硬い感じがある。おそらく麻か木綿、決して豪華なものではなく、粗末といってもいい普段着だ。けれど彼女の体にとてもよくなじみ、そしてよく似合っている。」なんという素敵な批評だろう。絵に描かれたセザンヌ夫人を絵ではなく目の前に存在しているかに語る。それは、描いたセザンヌの眼であるし、セザンヌの距離である。私もそんなふうに肖像画を観てみたいと強く感じた。

その項目の最後には、「《セザンヌ夫人》の心の声をようやく聞いた。ポーズをとるのはイヤ。だけどポール・セザンヌにみつめてもらえないのはもっといやなの――と。」

12. 5月 2026 · May 11 , 2026* Art Book for Stay Home / no.185 はコメントを受け付けていません · Categories: 日記

『日本美の再発見(増補改訳版)』ブルーノ・タウト、篠田英雄訳(岩波新書、1962年(初版1939年))

「日本美の再発見」はブルーノ・タウトが再発見したということであるが、「日本人よ、お前たちもこんな素晴らしい日本美をきちんと認識しろよ」と言っているような本著である。

タウトは、ドイツの建築家であり、1933年にナチスを逃れて日本に3年半滞在、その間精力的に日本の各所を巡り、桂離宮、伊勢神宮、飛騨白川の合掌造り、秋田の民家の素晴らしさ、魅力を絶賛した。とくに桂離宮において「これぞ日本の誇るべき美、精神」とした。一方で、日光廟(日光東照宮と東照宮と大猷院)を日本の恥ずべき建築として徹底的にけなしている。私利私欲のない外国人の著作であるがゆえに、この賛否は強い説得力をもって読者に訴える。

日本美術史における「侘び寂び」の価値観は、タウトによって決定的なものになったのではないか。1926年に東京帝室博物館(東京国立博物館)で、伊藤若冲の『動植綵絵』30点が展示され、若冲への関心が高まりつつあった。しかし、その「反・侘び寂び」的作品への関心は削がれることとなったのではないか。

美術史は、美術があってこそ存在するが、美術もまた美術史によって存在を確認される。「日本美の再発見」は、桂離宮などそれまでの美術史を塗り変える名著であるが、諸刃の剣でもあることを読者は心得なければならない。

 

23. 4月 2026 · April 23 , 2026* Art Book for Stay Home / no.184 はコメントを受け付けていません · Categories: 日記

『鏡・空間・イマージュ』宮川淳(美術出版社、1967年)

1967年の出版といえばもう半世紀以上も前である。そのころ美術出版社は『美術手帖』の売上を伸ばし、本著のシリーズ『美術選書』も次々出版される人気であった。いわゆる前衛美術が血気盛んな頃である。

本著を学生時代に読んだ。本屋で手に取った段階で「難しそうやなぁ」という印象を持ちながら、当時の私にとって創作の突破口になるのではないかという思いで買ったことを憶えている。『鏡・空間・イマージュ」はいかにも魅力的な著名である。一見具象的でありながらも抽象的である。そもそも鏡という実態は単なる物体であるが、美術において単にものを映す道具ではない。空間はどのような空間を指すのか、小さな名刺にさえ活きる空間から、インテリア空間、都市空間、はては宇宙空間まで、更には人間空間といったものまで、果たしてそれは具象的なものなのか。イマージュ(イメージではないがイメージを含んでいる)、創作には極めて必要なものであるが、必ずしも対象物がイマージュを持たなければならないものではない。といった3つのキーワードである。
著者は本著をエッセイという認識を持っており、評論という位置づけではない。したがって内容はテーマを自由に飛び交い、読者を惑わし楽しませる。巻末に本文で取り上げられた美術作品が十数点モノクロームで紹介されているが、文学にも精通している著者は、本著でかなりの内容量で文学を取り上げている。
読み返してみると、半世紀前に読んで側線を引いたところが今も再度引きたくなる。つまり成長していない自分がいる。例えば「サルトルがいうように『距離をつくり出したのは人間であり、距離というものが意味を持つのは人間的空間においてのみ』」そのとおりだが、それを今も自分の創作に活かせない以上、私の成長はないのである。