6月15日午後、愛知県立芸術大学で特別講義、テーマは「負のデザイン」。
デザインの殆どは正のデザイン、それはデザインが社会とともにあるからである。社会的であるとは「清く、正しく、明るく、美しく、楽しく・・・」が求められる大量に生まれるデザインにおいてはあくまで社会に了解を得なければならない。
そんなデザインはどこか虚偽性を孕んでいて、表層的でもある。なんだか嘘くさい。
「負のデザイン」は危ういが生きることの本音を捕まえていて、多くのデザインに活力を与えて来た。
館長 高北幸矢のブログ
毎月、文芸誌の表紙を木版画で制作している。版制作、刷り技術は上達するし、上手くなりたいと言う職人意識も常にある。15年前に木版画を始めたが、その頃の作品は今より技術は下手である。しかし、作品が良くないかというとそうではない。むしろ、木版画を始めたばかりの楽しさが版画に感じられてなかなか良い。
表現技術は、観る人を感動させることがあるが、感動させるために表現技術が磨かれるべきではない。
創作者は表現技術の上達に酔ってしまうことがある。誰もが判りやすく、「上手い!」と賞賛してくれる。これが危険。
岡本太郎は「絵は上手くっちゃいけない、下手な方がいい」と言っていますが、これの意味するところが表現技術賞賛の否定。写真が発明されコンピュータ時代にあって、表現技術賞賛は意味がない、そこに目を奪われてはいけない。
では本当に下手な方が良いのかというとそういう意味ではない。
一番大切なことは、創作者の想い。伝えたい想いのない上手い絵というのはつまらないということである。
創作者の想いを実現するために、表現技術が必要で、そのために磨かれる。それは必ずしもデッサン力があるとか超絶技巧という意味ではない。
デッサンは表現技術の骨をなすもの、ですがデッサン至上主義は主客転倒である。
想いと技術が一つになった時、美術が生まれる。
今週土曜日、17日の館長アートトークはエリック・カールについて。先月のアートトーク終了後「来月はエリック・カールです」と申したら聴講者のみなさんがきょとん「エリック・カールって知らんな」という反応だった。すかさず『「はらぺこあおむし」の作者』と言ったら「お〜」と凄い多くの反応。
これが絵本の世界かも知れない。
ディック・ブルーナよりも「うさ子ちゃん」「ミッフィー」の方が圧倒的に知られている。だからエリック・カールの「はらぺこあおむし」ではなくて、「はらぺこあおむし」のエリック・カール。
アートに置ける作者名と作品名については、いろいろ考える問題かと思うが、こと絵本に関しては絵本名が著者名よりも知名度が高いと言うのは素敵なことだ。
誰が作ったかよりも、この絵本が好き。これは子どもに限定せずに大人だって同じことが言えそうだ。その上で、「エリック・カールってどんな人だろう。どんな人があんな素敵な絵本を作ったのだろう」と考えることが、理解を深く楽しくする。
6月8日(木) 名古屋市博物館において、愛知県博物館協会 平成29年度総会が86名の参加者によって開催された。
愛知県博物館協会は、1962年に開催された神奈川県博物館協会と財団法人日本モンキーセンターとの交換研究会を経て、1964年、愛知地区博物館連絡協議会として、加盟館11館で発足。
発足以来、各種講演会・研修会の開催や協会報『愛知の博物館』の発行。現在、加盟館は118館を数え、展覧会情報誌『おでかけガイド』の発行などを通じて、加盟館の情報発信の場を提供している。また、加盟館員による各種研究会の発足など、より各個の問題意識を深める場としての役割も生まれ、愛知県内の博物館施設に所属する学芸員の研究・交流活動を支える場として活動を続けている。
総会にて、学校法人梅村学園中京大学古文書室(名古屋市昭和区)とあいち航空ミュージアム(西春日井郡豊山町県営名古屋空港内、今年度11月30日開館予定)が新規加盟館として承認された。
http://www.aichi-museum.jp/
総会後の記念講演会
「復興キューレション ー文化財レスキュー期における文化創造活動ー」
講師:加藤幸治東北学院大学教授
「ゴッホとゴーギャン展」が愛知県美術館で始まった。予想を超える人気で連日観覧客が押し寄せている。印象派のビッグ2、ゴッホ展でもゴーギャン展でも人気があるのに、この二人の展覧会である。
ところで、展覧会は基本個展が一番おもしろい。最もその作家の世界観が濃く深く観ることができるからである。人数が増えていけばいくほどおもしろくなるかというと、決して足し算にもかけ算にもならず、薄まっていく。印象派展とゴッホ展、どちらが興味深いかということである。
それで2人展の場合はどうか。その二人が創作の上で必然的な関係性があるかどうかである。子弟、夫婦、親子、友人にはその創作上の関係性を見いだすことができるだろう。しかし一方が圧倒的優れた作家で、他方がそれに頼るような2人展ではやはりつまらない。互いに高いレベルで自立していなければならない。
さて、ゴッホとゴーギャンである。印象派の画家たちは互いに交流があって友人関係にあることが多い。中でもこの二人は創作の上で互いに尊敬をしあっており友愛も強かった。故にアルルの街で共同生活が実現した。そこにひまわりの絵がある。ゴーギャンが好きだと言ったひまわりをたくさん描き飾って、ゴーギャンのための椅子を買って、友人ゴーギャンを迎える。繊細な二人はたった2ヶ月で共同生活を破綻させる。しかし互いの絵にたいする尊敬が失われた訳ではない。ゴッホの自殺によって友愛は終りを告げるが、その後ゴーギャンは、あのゴーギャンの椅子にひまわりの花を飾った絵を描く。まるで愛しいゴッホをゴーギャンが抱きしめるように。
ゴッホとゴーギャンは、互いに創作の上で強い結びつきがあって、友愛がある。だから「ゴッホとゴーギャン展」はおもしろい。
3月20日まで。
http://www-art.aac.pref.aichi.jp/exhibition/index.html
トリエンナーレとは、そもそも何か。トリエンナーレ(3年に一度)、ビエンナーレ(2年に一度)開催される現代美術の国際展。1895年からイタリアのヴェネツィアで開催され続けて、世界的な評価に至っている。ヴェネツィアの成功にならって、世界で200を超えるトリエンナーレ、ビエンナーレが開催されている。国内でもこの数年、小さなものを含めて50ほどあり、殆どが始まったばかりである。なおヴェネツィアビエンナーレは、美術の他に映画、建築、音楽、演劇、舞踊部門がある。
その目的は、国際交流や地域活性化、観光客の集客であり、その地域の人々が多様な国の多様な芸術に触れることを目的としている。目的に適うためには、地域の芸術・文化に刺激を与えるということが求められる。地域の芸術・文化を地域の人に紹介するということは、日常に行われていることである。3年に一度、他地域から優れたものを持ち込むことが、地域の芸術・文化に携わる者にも大きな刺激となる。どんなに優れた芸術・文化であっても、同じことが繰り返されれば澱み、停滞することになる。
さて、3回目を迎えた「あいちトリエンナーレ2016」を、そうしたトリエンナーレの本来の目的に照らし合わせて考えてみる。「トリエンナーレを開催する意味がない」という意見がある。それに対しては、開催されなかったこの7年を想像して比べてみれば判る。東京は別格として、極めて芸術・文化の集積が高い愛知県である。トリエンナーレが開催されなくとも、毎年恒例の芸術・文化催事は確実に開かれていたであろう。しかし、それらの刺激的進化は難しい状況にある。慢性的経済不況、それにともなう愛知県、名古屋市の文化予算削減という側面的な要因もあるだろう。
他県に比べて極めて多い芸術系大学の学生達が、情熱を持って向かう活躍の場が用意できなくなっている。トリエンナーレが開催されていなかったら、この地域における美術の現状はさらに大きな停滞を生み出していたことになるだろう。
一方で、あいちトリエンナーレがそうした状況に充分刺激的であったかという問いには、充分ではなかったと言えるだろう。愛知芸術文化センター、名古屋市美術館を核としたことは、交通の便、予算削減、運営機能の効率という点で利点が大きい。しかし、そこには公序良俗に反しないという強い規制が求められ、創作、発表に影響が出ているのではないか。長者町や栄、豊橋、岡崎の空きビルには刺激的で魅力の溢れる作品がいくつもあったが、トリエンナーレ全体を強くアピールするには至っていない。核となる二施設に圧倒的魅力に溢れる作品がなかったことは残念である。
あいちトリエンナーレのもう一つの柱、パフォーミングアートは、日本における他のトリエンナーレや芸術祭に比べてユニークであり、実験的なものも多く、パフォーミングアーツ分野に留まらず、伝統芸能や美術の領域にも刺激的であったと思われる。
「あいちトリエンナーレは、やるべきではない」といった議論の噴出も含めて保守的なこの地域に意義深いことだと思う。
大巻伸嗣(豊橋会場)
カンパニー・ディディエ・テロン(名古屋市美術館サンクスガーデン)
紅葉の景色が素晴らしい中央高速を使って、岐阜県現代陶芸美術館(多治見)で開催中の「人間国宝石黒宗麿のすべて」を観てきました。
陶芸では、富本憲吉、濱田庄司、荒川豊蔵とともに、最初の人間国宝に認定されました。多彩技法を堪能、全作品の完成度の高さはさすがです。器に描かれた絵が華やかで眼を奪われますが、私は横から観た黒釉葉文茶碗や鈞窯鉢の力強いバランスによる美しさに心を奪われました。
絵とフォルムが互いに行き過ぎていない器が好きです。その双方に能力の高い宗麿作品であるが故です。
続いて多治見の笠原町に出来たモザイクタイルミュージアムにも足を伸ばしてきました。藤森照信設計の建築は、ずるいほどかわいくてワクワクしての入館です。
4階に展示されたモザイクタイルのシンク。かつて実家にもあったものですが、こんなに美しいものだったのかと遠い眼になりました。
60代以上の方は懐かしい暮らしの風景があり、小さなこどもも楽しめる4世代で出かけることもお薦めです。産業ミュージアムらしい魅力に溢れています。
絵を描き始めた頃の遊亀、モダンに生きた遊亀、花を描いている時の遊亀、女を描いている時の遊亀、子供が大好きだった遊亀、師(安田靱彦)を生涯敬い続けた遊亀、コマ(愛犬)を愛した遊亀、105歳の遊亀。
どんなに素敵な女性だったのだろう。作品の一点一点がその時々の人生の「生きている」を感じさせてくれる展覧会です。そして「小倉遊亀に会いたい」と思う展覧会です。